メッセージ。 - diary
2019-12-17
# にゃー
たとえば、電車に乗っていると、たまに誰かが誰かに迷惑をかけられているシーンを見かける。いそいで電車から降りようとして人にぶつかるとか。ぶつけてしまった人が謝ればいいのだけど、謝らずに立ち去る人というのがたまにいる。
そういった場合、もし自分がぶつかられたほうだったら腹が立つ。頭に血がのぼって、はらわたが煮えくりかえるような感じがし、いっとき怒りが頭と心を支配して、さらに嫌な気持ちになる。
しかし一方で、もし自分がただそのシーンを見かけた傍観者だった場合、腹は立たない。「嫌な人がいるなぁ。ぶつかられた人は気の毒だなぁ」と思うけれども、それでおしまい。この違いはなんなんだろう。
どうして自分自身が被害を受けたときには腹が立ち、自分が傍観者だった場合には腹が立たないのか。
本来なら、どちらのケースでも腹が立っていいし、逆にどちらのケースでも腹が立たないという選択肢もありうる。
そういった場合、もし自分がぶつかられたほうだったら腹が立つ。頭に血がのぼって、はらわたが煮えくりかえるような感じがし、いっとき怒りが頭と心を支配して、さらに嫌な気持ちになる。
しかし一方で、もし自分がただそのシーンを見かけた傍観者だった場合、腹は立たない。「嫌な人がいるなぁ。ぶつかられた人は気の毒だなぁ」と思うけれども、それでおしまい。この違いはなんなんだろう。
どうして自分自身が被害を受けたときには腹が立ち、自分が傍観者だった場合には腹が立たないのか。
本来なら、どちらのケースでも腹が立っていいし、逆にどちらのケースでも腹が立たないという選択肢もありうる。
2019-12-04
# にゃー
なんとなく思ったこと。たとえば、フランス人にとって英語を学ぶことは、日本人にとって英語を学ぶことより簡単だろうと思われるが、どの程度簡単なんだろうか。簡単だと思われる理由としては、文法構造が似ていることや、ある程度似た文化的基盤を持つことが挙げられる。これらの背景により、フランス人は英語を話すとき、母語であるフランス語から英語へと言語を「トランスパイル」することができるのではないか。
一方で日本語や日本の文化は、フランス語やフランス文化に比べると英語圏との共通点が少ない。その結果、日本人が英語を話すとき、母語である日本語を「コンパイル」しなければならない。文化的背景の差から単語やイディオムを探すだけでも難易度が高くなるが、文章の構造を変換したり、まったく異なる言い回しを見つけてくる必要がある。つまり、単語のレベル、文法のレベル、文脈のレベルで適切なものを見つけなければならない。それをリアルタイムにやるのだ。
トランスパイルであればリアルタイムに実行できることでも、コンパイルとなると技術的難易度が跳ね上がる。日本人が英語を学ぶときに得なければいけない能力は、ここにあげたような単語、文法構造、文脈に応じた言い回し、さらには音素・音感とリズム、ある程度の社会的プロトコル(常識や期待される社会的類型)の「体得」となるだろう。
一方で日本語や日本の文化は、フランス語やフランス文化に比べると英語圏との共通点が少ない。その結果、日本人が英語を話すとき、母語である日本語を「コンパイル」しなければならない。文化的背景の差から単語やイディオムを探すだけでも難易度が高くなるが、文章の構造を変換したり、まったく異なる言い回しを見つけてくる必要がある。つまり、単語のレベル、文法のレベル、文脈のレベルで適切なものを見つけなければならない。それをリアルタイムにやるのだ。
トランスパイルであればリアルタイムに実行できることでも、コンパイルとなると技術的難易度が跳ね上がる。日本人が英語を学ぶときに得なければいけない能力は、ここにあげたような単語、文法構造、文脈に応じた言い回し、さらには音素・音感とリズム、ある程度の社会的プロトコル(常識や期待される社会的類型)の「体得」となるだろう。
2019-11-18
# にゃー
先週末、横浜でよこはま運河チャレンジというイベントをやっていて、これ自体は横浜市内の水上交通をキーにしたイベントという感じだったんだけど、いろいろ面白かった。大岡川をボート?小さめの船で30分ほどクルーズしてくれたり、ライブや踊りのイベントをやっていたり。偉い人の挨拶もちょっとだけ聞いたのだけど、それさえも等身大な感じで飾りがなくて面白かった。
その中でも、日の出桟橋のところでやっていたライブ。なんていうバンドの人たちが歌っていたのか知らないのだけど、お客さんも含めて盛り上がっていた。バンドの人が「まるでライブみたい」って自分で言ってるのも面白かったけど、たしかに「まるでライブみたい」と感じた。
で、そのバンドの人が言っていたんだけど、「世界を救うために歌ってるんだ」って。「でも、本当はあんたが世界を救うんだ。おれも頑張るけどよー」みたいに歌っていて。「本当は自分も世界を救いたいって、心の中に少しでも願っている人たちに向けて歌ってるんだ」って言っていて。本当にそうだよなぁって思った。
こないだ読んだ松下幸之助さんの本でも、会社が上向いてきたころ「これからはただ目の前の製品を作るというのではなくて、社会の役に立ち世界の役に立つ仕事をするという目標を立てたら、なぜだか結果が変わってきた。同じことをしていても、より大きな目標に向かって自然と前進するようになった」というようなことが書いてあって、それと同じだと思った。
普段ぼくも、世の中の役に立つシステム、人の心を動かす計算機を作りたいと考えているけど、「世界を救う」というところまでは大きいことを言っていなかったし、「目標」といえるほど言葉にはしていなかった。だけど、本当はぼくだって、世界を救う仕事がしたいんだ。世界を救うために、何か少しでもできることがあると信じたいんだ。
これまで長年、プログラムを書いてきて、それなりになにかしらのシステムが作れるはずだと、思ってる。もっとやれるはずだと思ってる。これからはもっと前を向いて、世界を救うシステムを作っていきたい。
その中でも、日の出桟橋のところでやっていたライブ。なんていうバンドの人たちが歌っていたのか知らないのだけど、お客さんも含めて盛り上がっていた。バンドの人が「まるでライブみたい」って自分で言ってるのも面白かったけど、たしかに「まるでライブみたい」と感じた。
で、そのバンドの人が言っていたんだけど、「世界を救うために歌ってるんだ」って。「でも、本当はあんたが世界を救うんだ。おれも頑張るけどよー」みたいに歌っていて。「本当は自分も世界を救いたいって、心の中に少しでも願っている人たちに向けて歌ってるんだ」って言っていて。本当にそうだよなぁって思った。
こないだ読んだ松下幸之助さんの本でも、会社が上向いてきたころ「これからはただ目の前の製品を作るというのではなくて、社会の役に立ち世界の役に立つ仕事をするという目標を立てたら、なぜだか結果が変わってきた。同じことをしていても、より大きな目標に向かって自然と前進するようになった」というようなことが書いてあって、それと同じだと思った。
普段ぼくも、世の中の役に立つシステム、人の心を動かす計算機を作りたいと考えているけど、「世界を救う」というところまでは大きいことを言っていなかったし、「目標」といえるほど言葉にはしていなかった。だけど、本当はぼくだって、世界を救う仕事がしたいんだ。世界を救うために、何か少しでもできることがあると信じたいんだ。
これまで長年、プログラムを書いてきて、それなりになにかしらのシステムが作れるはずだと、思ってる。もっとやれるはずだと思ってる。これからはもっと前を向いて、世界を救うシステムを作っていきたい。
2019-10-17
# にゃー
少し昔、世の中には「査定」という言葉や考え方があった。どこにどれくらいあったかは知らない。いまもどこかに相当量残っているはずだけど知らない。
ともあれ、「査定」という考え方は会社員の心や考え、行動を制限するものだ。「査定」という言葉は、「こんなことをしたら査定に響く」とか、「査定が低いから今回も昇進できなかった」というふうに使われる。
ベンチャー企業や、外国人の多い会社に勤めていると、「査定」という考え方は滅多に聞かない。一部の人はその考え方を持つが、その言葉を知らなさそうな人も多い。
「査定」という言葉を理解している人は、一般的にバリバリ働く。逸脱しない。そういう人はベンチャー企業やIT業界の中にあってもまだたくさん存在する。かくいうぼく自身も、意識しないうちに査定という言葉に囚われていたなと思うことがあった(査定に囚われることが悪いことだと言いたいわけではない)。
先日、ある外国人の従業員が突然2ヶ月の休みを取るという話を聞いた。どこか海外に行くのだという。プロジェクトの繁忙期であったということもあり、それを聞いた日本人従業員は耳を疑った。
「ありえない」「許可を得たのだろうか?」「勤怠管理上どういう扱いになるのだろう?」。「普通の日本人なら、そういうことはしない」。しかし、よく考えてみればなぜ「しない」んだろうか?どうすれば彼に「いまは行かないでほしい」と言えたのだろうか?あるいは、実は間違っているのはこちらで、彼の行動、「行く道」のほうが「正しい」のではないか?そう考えたとき、日本人がそういうことをしない理由のひとつは、「周りに迷惑がかかる」とか、「何か悪いことが起こる」といった考えもあるだろうけど、別の観点として「査定」が挙げられるのではないかと思った。
査定とは、要するにその組織の中での信用、creditである。アメリカでは、クレジットカードに信用スコアがあり、信用スコアを育ててメンテナンスしなければ社会生活に様々な差し支えがあるというが、それと同じ。会社の中には、各従業員にスコアが割り振られていて、そのスコアによって序列やなわばり、もっといえば生きやすさや誇りや自由が変わってくる。
だから、昔からある日本の会社では、中にいる人は査定を無意識にでも気にしている。しかし一方で、新しいベンチャー企業のようなところや、外国人が多いような会社、リストラが先に見えているような会社では、(本当は)査定が存在しない。嫌になったらすぐ辞めて次の会社に行けばいいような状況で、クレジットを気にしても仕方がないからだ。外国人従業員が「日本人ならこういうことはしない」といったことを簡単にやってのけるのは当然のことだ。
ところが、案外日本人はそのことに気づいていない。新しい世界には査定など存在しないのに、彼らは何十年経っても「それが存在した世界」のルールで働いてしまっている。経営者ですらそうだ。本来なら、ベンチャー企業を立ち上げたときや、外国人従業員を受け入れると決めたときに、彼らは「査定」に替わるなんらかの仕組みや規律や文化を築かなければいけなかった。
誰もそのことに気づかず、なぁなぁにやっていくからバラバラになる。ゴールがどこか、どうやってそこへ行くかが分からなくなる。
それはコミュニケーションの問題であり、リーダーシップの問題であり、設計の問題である。ルールがないか、あっても守られていないような球技やゲームがもしあったとしたら、さぞかしつまらないだろう。しかし、それが実際に行われている。誰かが悪いと言いいたいわけじゃない。ただ、チームメイトにパスを渡したい、ゴールに向かって一緒に走りたいと思ったときに、「チームメイトなんていなかった」というのはつらい。査定というルールや審判がないのなら、別の何かを作らないといけない。
違う文化圏、違う村から来た人たちとチームを組むのならば、ただ違うものを違うまま置いておくだけでは機能しない。目的とルールを明確にし、徹底することでゲームを動かさなければならない。そうしなければ面白くならない。
ともあれ、「査定」という考え方は会社員の心や考え、行動を制限するものだ。「査定」という言葉は、「こんなことをしたら査定に響く」とか、「査定が低いから今回も昇進できなかった」というふうに使われる。
ベンチャー企業や、外国人の多い会社に勤めていると、「査定」という考え方は滅多に聞かない。一部の人はその考え方を持つが、その言葉を知らなさそうな人も多い。
「査定」という言葉を理解している人は、一般的にバリバリ働く。逸脱しない。そういう人はベンチャー企業やIT業界の中にあってもまだたくさん存在する。かくいうぼく自身も、意識しないうちに査定という言葉に囚われていたなと思うことがあった(査定に囚われることが悪いことだと言いたいわけではない)。
先日、ある外国人の従業員が突然2ヶ月の休みを取るという話を聞いた。どこか海外に行くのだという。プロジェクトの繁忙期であったということもあり、それを聞いた日本人従業員は耳を疑った。
「ありえない」「許可を得たのだろうか?」「勤怠管理上どういう扱いになるのだろう?」。「普通の日本人なら、そういうことはしない」。しかし、よく考えてみればなぜ「しない」んだろうか?どうすれば彼に「いまは行かないでほしい」と言えたのだろうか?あるいは、実は間違っているのはこちらで、彼の行動、「行く道」のほうが「正しい」のではないか?そう考えたとき、日本人がそういうことをしない理由のひとつは、「周りに迷惑がかかる」とか、「何か悪いことが起こる」といった考えもあるだろうけど、別の観点として「査定」が挙げられるのではないかと思った。
査定とは、要するにその組織の中での信用、creditである。アメリカでは、クレジットカードに信用スコアがあり、信用スコアを育ててメンテナンスしなければ社会生活に様々な差し支えがあるというが、それと同じ。会社の中には、各従業員にスコアが割り振られていて、そのスコアによって序列やなわばり、もっといえば生きやすさや誇りや自由が変わってくる。
だから、昔からある日本の会社では、中にいる人は査定を無意識にでも気にしている。しかし一方で、新しいベンチャー企業のようなところや、外国人が多いような会社、リストラが先に見えているような会社では、(本当は)査定が存在しない。嫌になったらすぐ辞めて次の会社に行けばいいような状況で、クレジットを気にしても仕方がないからだ。外国人従業員が「日本人ならこういうことはしない」といったことを簡単にやってのけるのは当然のことだ。
ところが、案外日本人はそのことに気づいていない。新しい世界には査定など存在しないのに、彼らは何十年経っても「それが存在した世界」のルールで働いてしまっている。経営者ですらそうだ。本来なら、ベンチャー企業を立ち上げたときや、外国人従業員を受け入れると決めたときに、彼らは「査定」に替わるなんらかの仕組みや規律や文化を築かなければいけなかった。
誰もそのことに気づかず、なぁなぁにやっていくからバラバラになる。ゴールがどこか、どうやってそこへ行くかが分からなくなる。
それはコミュニケーションの問題であり、リーダーシップの問題であり、設計の問題である。ルールがないか、あっても守られていないような球技やゲームがもしあったとしたら、さぞかしつまらないだろう。しかし、それが実際に行われている。誰かが悪いと言いいたいわけじゃない。ただ、チームメイトにパスを渡したい、ゴールに向かって一緒に走りたいと思ったときに、「チームメイトなんていなかった」というのはつらい。査定というルールや審判がないのなら、別の何かを作らないといけない。
違う文化圏、違う村から来た人たちとチームを組むのならば、ただ違うものを違うまま置いておくだけでは機能しない。目的とルールを明確にし、徹底することでゲームを動かさなければならない。そうしなければ面白くならない。