メッセージ。 - diary

2021-08-22

# にゃー

オリンピックに関して、僕は賛成派でも反対派でもない。一般的に、僕は何派とかに属することはほとんどない。ただ個人的に思うこととしては、やはりオリンピックの開催はいまは不可能だろうということだ。

なぜならオリンピックは世界的なイベントであって、参加する各国や各選手の事情を充分考慮しなければならない。開催国が自国のコロナを押さえ込めると判断し、よしんば十分な準備ができたとしても、選手を送り出す各国が対応できなければどうしようもない。

とくに大変な数の感染者や犠牲者を出している国を思うと、いまこんな時期にオリンピックに人を出してくれと頼むのは僕だったらできない。それはまるで、戦争やお葬式をやっているすぐその横でパーティを開催するようなものだ。

この時期に開催することは、現在進行形でコロナと戦っている各国の負担になりリスクになる。だからひとことで言うと賛成とか反対とかではなく不可能だろうということだ。

オリンピックが人々の夢や希望になるという意見もあるけれども、本当にそうなのだろうか。たしかに頑張っている人を見るのは、ときに心を打つものがある。しかし、やはりいま一番頑張っているのは医療従事者であり、コロナに罹患して苦しんでいる家族と患者、あるいは感染を広めないよう不断の努力をしている人々のはずだ。

みなを代表して一番頑張っている人のことをテレビに映すというのならば、彼らを差し置いて映すものなどない。もし仮にコロナのワクチンや治療薬が世界の隅々にまで行き渡って、世界の隅々の人々が希望を実感できるようになる状況ならば、オリンピックの開催にも価値があるだろう。

なぜなら現代において人々に夢や希望を与えるものがあるとすれば、それは「科学の進歩」と「人類の理性」であると個人的に思うからだ。科学の進歩を象徴するコロナワクチンが、人類の理性を象徴する平等と人道の実践によって富めるものと富まざるものに分け隔てなく行き渡るならば、夢と希望が感じられる。

ここ数世紀、大きな鉄の塊を高速で走らせ、遠くの人と音声や視覚を共有し、宇宙にまで人間を運び、病気や死の苦しみを遠くに押しやることができる科学の進歩は、子どもだけでなく大人にも夢を見せ、その考え方も生活も変えてきた。

それに加えて、社会という人間にとって最も危険な存在の暴走が抑制され、科学の強大な力がより恐ろしい結果をもたらすことを防ぎ、憎しみの衝突を対話によって回避できることが、現代に生きる人類にとっての、最大の救いであるはずだと考える。

その点では、残念ながら最近のニュースからは夢と希望を感じられることがほとんどなく、むしろ逆行してさえしているように感じてやまない。オリンピックという一事をとっても、あまりに情けない状況ばかりが目につき、言葉をなくしてしまう。本来なら、このイベントは我々にとって夢と希望を取り戻す一つのチャンスにさえなりえたはずなのにと感じてしまう。

どうしたらいいんだろう。何をしたらこの状況を変えられるんだろう。少しでもヒントを知っている人がいれば教えてほしい。
2021-08-22 15:39:09 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-07-14

# にゃー

うーん。やっぱり、デザイナーさんに「文言まで考えて」とお願いするのは無理があると思うよ。餅は餅屋。言葉を考えるってのは、誰でもできるようで、そう簡単なことじゃない。言葉の重みとか、どう受け取られるかとか、「こうでないといけない」ということがたくさんある。

もちろん、デザイナーさんでもそれができる人はいる。でも、基本的には別の仕事だから。当たり前のように(だれかれ構わず)「デザイナーだからできるでしょ」とか、「デザイナーもできたほうがいいでしょ」みたいに考えて仕事を振ってしまうのは、物事の道理にかなっていないと思う。

デザイナーとかディレクターとか編集とかプログラマーとかにかかわらず、仕事を依頼するときは、仕事の内容やお願いする相手のことを理解しないと、大きくモチベーションを下げるし、事故につながるリスクを大きくする。それぞれ専門性や得意分野があるので、それを尊重しないとひどいことになるよという話。
2021-07-14 21:00:08 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-06-20

# にゃー

先日公開したUIMockを若干手直しした。変更点としては、いきなり編集画面を見せられても初めての人は面食らうだろうから、トップページとして「ようこそ画面」を開くようにしてみた。あとは、ページ名を変更したときなどに、リンク切れを検知して修正のサジェストをするようにしている(サジェストについてはまだ完成度が非常に低い)。

サジェストの機能はもっと拡充させたいけど、実装してみるとなかなか難しい。というのも、現在の編集フォームでは、ユーザーが編集しているのはtextareaの中の文字なので、ユーザーが入力した「個々の文字の追加・変更」をシステムが「ページ名が変更されたのか?」や「何から何に変更したいのか?」といったメタな情報に解釈しないといけないから。

ただまぁ、リンク構造を編集するうえでは是非ともあってほしい機能なので、もう少し検討してみたい。そういう意味では、リンク構造を編集できるエディタを作りたいと昔から思っているので(シェルスクリプトベースのものは作ったりしたこともあるけど)、うまくいけば汎用化して今後そういう方向性のツールに進化させるのも面白いかもしれない。

https://pikapika.to/~yf/uimock-web/
2021-06-20 00:21:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2021-06-10

# にゃー

テスト
2021-06-10 21:39:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# UIMock

以前に公開していたUIMockというツール。いつのまにか動かなくなってしまっていたので書き直した。
前回はHaskellでコードを書いていたけれども、今回はPurescriptで書いている。

https://pikapika.to/~yf/uimock-web/

Purescriptにする(個人的な)1つの利点は、プログラムがクライアントシステム上で(ブラウザ上で)動くということだ。
CGIやWebサービスのようなサーバーサイドプログラムの場合、サービスを継続するためにはサーバーシステム上でインスタンスを動かし続けないといけない。
ただ単にApacheやnginxを動かすだけなら問題ないけど、経年のOSバージョンアップやセキュリティ対策、不具合対応などをしたうえで、
各アプリケーションの稼働を継続するのは大変だ。

とくに、ここのような零細なサイトでは、そのようなアプリケーションの稼働を何年にもわたって監視したりメンテナンスしたり
するのは厳しくて、どうしても「いつの間にか動かなくなっていた」ということが起こりがちだ(もちろん、OSのバージョンアップなどは
自動化しているのだけど、アプリのメンテナンスがそれに追いつかない)。

でも、実際のところは、動かなくなっていても誰も気づいていないフシがある。
「ユーザーがいないのだからどうせ動いていなくても問題ないでしょ」という意識が働くことは否めないし、
実際にユーザーはいないと思われる。ここはそのような閑古鳥が鳴くサイトであり、自他ともに認める限界サイトなのだ。

そういう意味では、どうせプログラムや記事を公開したところで誰にも気づかれることはない。
意味のないことであるし、自己満足ですらないというのが実態だろう。
ならばなぜ、公開するのか?まぁ、たいした意味などない。もしかしたら誰かの役に立てばいいな、というぐらいのものだ。

それにまぁ、一応うまく動いているんだよ。作っている最中は「これは面白い、役に立つぞ」と思って作っているし
作ったあとでも「悪くないんじゃない?」と思う。ただ、どういうわけか作り終えたあとでは、ぼくにはその価値が分からなくなってしまうのだ。

たとえば陶芸家が、焼き上がった作品を見て「こんなんじゃない、ガシャーン」とやるようなものかもしれない。
できあがったものは、やけにちっぽけに見える。動いていて当たり前だし、「もっとあそこが良くできるはず」「なにかピンとこない」といった
感覚がどうしても残る。端的にいえば面白くない。

でも、本当はどうなんだろう。作り始める前や、作っている最中の自分は、間違いなくそれを面白がっていたんだよ。
そしてある程度は思い描いた形のものが作り上がっている。ならば、誰かの役に立つこともあるかもしれない。

作ったもの自体の価値や面白さは、作り始める前も作り終えたあとも本来は変わらないはずだ。
けれども作り終えると面白くなく感じてしまう。それは作品が変わったのではなく、自分が変わったのだと考えるほうが妥当だ。
であるならばなおさら、作られたもの自体は作り手のもとを離れたほうがいい。

関連記事: https://pikapika.to/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=3213
2021-06-10 00:32:00 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2020-09-16

# にゃー

フェミニスト「VRアバターの販売は人身売買まがい」「VRで美少女の体になるのは究極の女体の私物化」 - Togetter
https://togetter.com/li/1588856

ちょっと前に呼んだ記事が、思考実験として面白そうに思った。ちょっと引用しながら考えてみる。

 リアルで生きることに不満を持ったオタク男性たちが美少女になりきってVRをプレイしているらしい。オタク男性たちがいかに女性に対して幻想を抱き、そして女性の体を好きに扱い、モノとして見ているかがわかる。美少女になることがアイデンティティの確立?オタク男性たちのミソジニーの極みだと思う。

世情に疎いのでVRがどんなものなのかよく分からず、「ミソジニー」ってどういう意味なんだっけ?と検索しながら読んでいたりするんだけど、販売されているアバターというのは、以下のようなものらしい。

https://booth.pm/ja/browse/3D%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB

ちょっとよく分かっていないけど、ここにあるものを購入すれば、VRの世界でキャラクターになりきって遊ぶことができるのかな?一部過激なものが陳列されていることもあり、もし自分がそのキャラクターになりきって遊ぶとしたらって想像すると、ちょっとドキドキしてしまった。

なんというか、もし自分が可愛い女の子だったら、どんな風に世界が見えるんだろうというか。もちろん、可愛い人は可愛い人なりに大変なこともあるんだろうと思うし、いいことばかりでもないだろう。でも、憧れちゃうような気持ちになるのは仕方がないのかなぁとも思う。

普段男というのは、「汚い」「がさつ」「下劣」「暴力的」「キモい」というふうに、社会的に(女性に比べて)劣位に置かれている部分がある。劣等感を感じているんだ。だから、その反対となる概念、カーストの最上位にいる「可愛い女の子」というものに、憧れや畏怖の念を持っている。

もちろん、男だけではないだろう。カーストの下位にいる女性や、下位といえないまでも普通レベルの女性でさえ、「自分も可愛いと言われたい」「可愛くなりたい」という気持ちを持っている。だから女性たちはときに化粧をし、ときに可愛い洋服を買い、ときに自分磨きをし、ときに土俵を降りて目立たぬよう暮らしたりする。

そういったねじれがこの社会にあり、ねじれの中で悲しい思いをしているなか、誰だって変身願望を持っていておかしくないのではないか。たとえば、キモい(と社会から評されている)男性が、可愛い女性に憧れて変身したいと望んだところで、そんなに罪なのだろうか。それは、可愛くない(と社会から評されている)女性が、可愛くなりたいと化粧をしたり、洋服を着飾ったり、諦めて立ち去ったりするいじらしい気持ちと何が違うのだろうか。

問題は、可愛いか、可愛くないかだけではない。この社会の中で、人生がうまくいかず悩み苦しんでいる人はたくさんある。思っていたような自分になれない、学校や職場で人間関係がうまくいかない、いじめられている、誰にも褒めてもらえない、他人より劣っている、重い病に苦しんでいる、分かり会える人がいない、人生の終わりが近づいている。人生は、うまく行くことばかりではないばかりか、うまくいかないことがほとんどだ。なにも思い通りにならない。

だから人は想像する。「もし・・・だったら」。もし自分が絶世の美男・美女だったら。もし自分が世界一の格闘家だったら。もし自分が世紀の大天才だったら。もし自分が大富豪だったら。もし自分が猫だったら。もしあの人がいまここにいてくれたら。もしこの世界が優しさに包まれていたなら。

そういった想いが、世界に物語を紡いでいく。考えてみれば、化粧や洋服だけでなく、映画も、自動車も、教育も、仕事も、携帯電話も、人と人との関係も、「いまの自分とは違う何か」「いまの世界を変える何か」「誰かとのつながり」
にドライブされている。人々の祈りや願いや悲しみや悩みが、物語を求め、物語を生み出し、そして新たな祈りや願いや悲しみや悩みを紡いでいく。

だからぼくは思う。彼ら・彼女らは、「女性の体を好きに扱いたい」のではない(もちろん一部にはそういう人もいるだろうけど)。多くの人は、「女性の体を好きに扱いたい」のではなく、ただ単に、「自分のことを好きになりたい」「誰かに気持ちを伝えたい」「誰かと分かり合いたい」と思っているだけなんじゃないかな。
2020-09-16 00:45:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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