メッセージ。 - diary

2006-12-14

# ひとりごと

メディアを作る人間が共通して犯す過ち。それはメディアを愛してしまうことだ。彼らはメディアを愛するあまり、本当に愛すべきものを見失ってしまう。メディアなど本来、道具にすぎないのに。彼らはその愛で、自らを焼き尽くしてしまう。メディアとともに、退廃という甘美な腐臭につつまれながら。誰かを騙そうとする人間は、すでに自分に騙されている。愚か者を引っ掛けて一儲けしようという人間は愚か者だ。
2006-12-14 23:10:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ひとりごと

毎日ってのは本当は、涙が出るほど楽しいものだ。世界というのは本当は、塵の1つに至るまで震えるほどの美しさを持っている。それを伝えずして何がメディアか。コミュニケーションか。
2006-12-14 10:16:50 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-13

# ちかごろのわたくし

「もう仕事やめる!」とか言いながら、ズルズルと会社にいるふじさわです。なんかねー、職場が変わって、いままでとは結構違う仕事を割り振られました。システム半分、企画半分みたいな感じなんですけど、ラクですねー。いままでは、「システムのことやりたーい!」って内心思いつつ、実際はそっちに時間を割けない状態だったのですよね。

でもいまは、ぼく以外にシステム分かる人がいないということもあって、なんでもありという感じです。積読になっている本に目を通したり、気になっていた技術トピックを掘り返したりと、結構楽しくやっています。もちろん企画系の仕事もあるわけですけど、扱うテーマが身近で、「ここは自分の庭だ」といった感じです。

あとはやっぱり、何にしても新しいというのはうれしいですね。同じところに長くいると、どうしてもやる気が減退してしまう質なので、「新しいところで新しいことをやってる」というだけで生産性が上がります。ただ、その代わりというか、ネットにつながりにくい環境になっちゃったので、Webの巡回などはだいぶアクティビティが落ちています。
2006-12-13 21:49:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-10

# 夢の話。

先日、夢を見た。

夢の中でぼくは、どこかへ行こうとしていた。どこかへ行こうと一本道を歩いていて、そこには見知らぬ人たちもたくさんいた。

その道は、人を試すような険しさがあり、いくつか障害を乗り越えてぼくは歩いていた。しかし、しばらく行くと、そこには崖があった。

崖の向こうには道が続いており、なんとか渡らないと向こうへは行けない。周りにいる人たちも、どうやら向こうへ行けなくて立ち往生しているようだった。

ふと見ると、この崖は降りられそうだ。壁づたいに歩いて向こうへ行けそうだと感じたぼくは、とりあえず幅30cmほどの足場を見つけて飛び降りた。ところが。

その足場は思っていたより狭く、壁づたいに歩けるような余裕はなかった。「これは無理だ」と思い、壁をよじ登ろうとする。でも、どうにも上がれない。手を伸ばせば、元いた道に手が届きそうなのに、体が上がらないのだ。

「困った。どうしよう」……と思ったところで、目が覚めて気付いた。

ぼくはそういうとき、「助けてくれ」と上にいる人に声を掛けられない人間だ。「助けてくれ」と言って、「嫌だね」と返されたらどうしようと思ってしまう。そもそも崖に降りる前に、周りの人と相談してもよかったのだ。だけどぼくはそうしなかった。そうしようと思い付きさえしなかった。

いや、もし周りの人が、「よし分かった。危なそうだったら助けてやるから、降りてみな」と言ってくれても、ぼくが降りた後で、「お前のことなんて知らない」と言われたらどうしようと思ってしまう。ぼくはそういう人間だった。
2006-12-10 09:48:08 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-09

# Binary 2.0カンファレンス2006だって。

いやなブログ - Binary 2.0カンファレンス2006

おほ! スルー力を試されてる?
2006-12-09 23:18:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-08

# 「自己中」の話。

ぼくは「自己中」という省略の仕方は、あんまり気にならないなぁ。携帯電話を「携帯」と呼ぶのには、抵抗があるけど。

どうして「自己中」が良くて、「携帯」は駄目なのか。つらつらと考えるに、どうもぼくは、関西的合理主義と、音感指向でそれを捉えようとしているからかなと思った。

まず、「携帯」の何が嫌って、「携帯○○」ってのがほかにもあるから嫌な感じがしちゃうんだよなぁ……。たとえば携帯傘とか、携帯灰皿とか。「携帯」という言葉そのものも、単体で扱ってよいほど意味が確立しているように感じる。

一方「自己中」は、存在が一人立ちしてる気がするんだよね。「ジコチュウ」っていう「すわ、外来語か?」というように可愛い音感だし、「自己中○○」みたいな類似の言葉もない。

「自己中」っていうのは、「あってもいいかな」という気がする。「自己中心的」って言葉は、よく使うわりに長くて言いにくいから。言いにくいところに、その言葉のニクニクシサが込められるのかもしれないけど、「そこを無理矢理可愛くして、笑い飛ばしてしまおう」というような言葉遣いが関西ではなされる。

実は関西人はけっこう合理主義で、この手の表現は多い。たとえば「マクドナルド」は、上と同じ理由で「マクド」だし、「ファミリーマート」は「ファミマ」。「サークルケー」は「サクケー」で、「びっくりドンキー」は「びくド」になる。

なんつーのかなぁ。関西人からすると、「携帯」も「マック」も、ちょっと乱暴な感じがする。一括りにできないような一般的な言葉を、固有のモノに対して適用するようなのは、あまり関西では好かれない。逆に関西では、そういった言葉の持つニュアンスや人の心のセグメントを、うまく使おうとするような精神がある気がするなぁ。

そういえば昔、「神奈川県が地元」という女友達がいた。彼女は「保土ヶ谷バイパス」という道路を指して、「ワタシたちはそれを『保土ヶ谷』と省略するけど」と言ってて、そのお馬鹿なニュアンスに笑いあったっけ。(「保土ヶ谷」というのは地名で、駅や区の名前になる程度に一般的な言葉です)
2006-12-08 13:01:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

2006-12-08 09:04:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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