メッセージ。 - diary

2006-11-25

# なんとなく、いじめについて思うこと

いじめが成立するのは、いじめられているほうが、「いじめられてる」って認めたときだと思うんだよね。

たとえばさ…。子供って、つまらない駄洒落みたいな囃し言葉でからかったりするでしょ?
あの駄洒落って、「どこが面白いの?」というのが多い。

で、当の本人たちもそれのどこが面白いのか分かっていない。囃すほうも囃されるほうも。
囃すほうはただなんとなくやっていて、それに対して囃されるほうが「期待したリアクション」を取ることで満足する。

たとえばぼくは、あるとき「ふじさわ」と書いた名前の「さ」の字が×に見えるということで、「ふじぺけ!」、「ふじぺけ!]とからかわれたときがあった。

これに対して、いちいち怒ったり嫌がったりして抗議すると、囃し立てた人間たちはますますその嫌がらせを続けた。「なにが面白いねん」と冷めた目で見返すほうが、被害の拡大を防げたように思う。

いま思うに、彼らはたぶん、強い者と弱い者の構図が欲しいだけだったんじゃないかな。そして、誰かに嫌がらせをして相手が嫌がるところを見ることで、その構図を作り出そうとしていたような気がする。

だとしたら、嫌がらせをされたとき、嫌がって見せるのが一番マズい対応なんじゃないかな。だって彼らは、「嫌がらせをする側とされる側」という構図を作りたいだけだから。一度嫌がらせをされる側に回ってしまうと、なかなかその構図から抜け出せない。

彼らは、嫌がらせゲームという序列を作る。そしてそれぞれが、序列の下位にいる者を押さえこんで、自分の序列を維持しようとする。序列の下位に位置づけられると、自分が嫌がらせをされてしまうからだ。

嫌がらせやいじめが嫌いなら、その序列で上位を目指すのではなく、「嫌がらせゲームには参加しない」という道を選ぶしかない。そのためにはまず、嫌がらせをされても嫌がらない態度が必要だと思う。彼らは自分に、「嫌がる」ことを望んでいる。嫌がって見せたら思う壷だ。

もしそういう態度をとっていても、しつこく嫌がらせゲームに誘う人間がいたら、ゲームの会場から一度離れたほうがいい。嫌がらせゲームはある一定の地域で行われる。ゲームの会場から離れてしまった人間は、参加を強制されない。クラスが変わったり、違う学校に進学したりすると、いじめが止むのはそのためだ。

逆に言えば、ゲーム会場を離れるだけで嫌がらせゲームから降りることができる。物理的に場所を移動するだけでよいのだ。「新しい場所でも、同じようなゲームをやっているのではないか」という危惧はよく分かるけれど、それはその場所に行ってみなければ分からない。

たしかにそのゲームは、どの地域でも見られるほど一般的なものであるけれども、でも「どこへ行っても同じ」というほど似通っているわけじゃない。街においしいラーメン屋さんと美味しくないラーメン屋さんがあるように、場所によって違っている。だから思い切って、別の場所へ行ってみるのは良いことだ。新しい場所が駄目なら、また別のところへ行けばいい。美味しいラーメン屋さんは、どこかにちゃんと存在している。
2006-11-25 19:16:42 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-11-24

# 創作意欲とお金

 
  政府の知的財産戦略本部(本部長・安倍首相)は、音楽や映像を違法コピーした「海賊版」をインターネット上からダウンロードすることを全面的に禁止する著作権法改正に着手する。27日に開く知財本部コンテンツ専門調査会に事務局案を提案。罰則も設け、08年通常国会に提出をめざしている改正案に盛り込む。海外でも人気が高い日本のマンガやアニメなどの権利保護を強め、コンテンツ産業の育成を促す狙いがある。

ええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!???

やめてよ。あったまおかしいんじゃないの? 『コモンズ』とか読んでる? 読んでみてよ。

  政府は「世界トップクラスのコンテンツ大国を実現する」との方針を掲げ、アニメや映画、ゲーム、音楽、出版などのコンテンツ産業の市場規模を、2010年までに15兆円にしたいとの目標を04年に設定している。
 
  知財本部は、現状を放置すれば正規のコンテンツの買い手が減り、正当な利益を得られない制作者が創作意欲を失いかねないと判断。海賊版のダウンロードが違法であることを明確にすることでその流通を減らし、コンテンツ産業を成長分野に育てたい考えだ。

制作者は、お金のためにコンテンツ作ってるわけじゃないと思うんだけど。彼らは、どんなに貧乏だって創作を続ける。海賊版が流通して儲けが減るなんてちっぽけなことで、創作意欲は削がれない。だって、海賊版を見る人たちは、作品を楽しんでくれるだろうから。作品が誰かに愛されているなら、制作者は喜んでものを作る。「産業にするから」と言って、作品を愛してもくれない人の手に渡るよりはよっぽどマシだ。
2006-11-24 20:43:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-11-23

# お洒落かぁ

それより、背筋を伸ばすほうがイイと思う。
服装なんて普通で、でも背筋が伸びてる人のほうが、凛としてて格好いい。

なんていうのかねぇ……。間というか、呼吸というか。
人間には、その人らしさや、味のような良さがある。
「あの人には雰囲気がある」って言うよね。ああいう感じ。

人間の印象って、服装とか顔だけじゃなくて、背筋とか呼吸とか、
食べ方とか歩き方とか、そういうとこに如実に出てくる。
一つ一つの呼吸や、歩みをおろそかにしないというのは、
実は難しいことだ。そこにconcentrateできるというのは、
立派なことだと思うのです。
2006-11-23 01:12:38 / ふじさわ / Comment: 3 / Trackback: 0

2006-11-22

# 今日の空目

「プリインストール」が、「プリンインストール」に見えた。

やべぇ。思いのほか多い。→"プリンインストール" - Google 検索
2006-11-22 21:46:13 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# プロ指向は冷えつつあるのかなぁと

最近、メディアについていろんな人と話をしていて、どうも根本的なところで温度感が違うなぁと思ったことがあるのでメモ。

ぼくの最近の感覚では、時代を覆う雰囲気として、いまはプロ指向みたいなものが非常に薄れているように感じる。たとえば漫画は、コミックマーケットが非常に大きくなっていて、わざわざプロの漫画家にならなくても描く楽しみが得られる。

プロの漫画家でさえ、コミケに出品したほうが儲かるとか楽しいとかいう話を何年も前から聞いている。アマチュアならなおさら、そこに出品するモチベーションも上がるだろう。なにも全員が全員、プロになりたいわけじゃないのだ。

コミケに行けば、気の合う仲間と遊ぶことができる。そこには、ものづくりにのめり込む人や、作品と真剣に付き合う人たちがいる。商売として作品を作るようになったら、妥協をしなければいけないし、ものづくりが単なる孤独な作業になってしまう部分も多い。

音楽についてもそうだろう。プロでなくても、仲間とバンドを楽しむことができるし、自分のやりたい音楽を追究できる。商業メディアに乗れば、お金は儲かるかもしれないけど、いいことばっかりじゃないのは皆薄々感じている。プロとして音楽をやることに、こだわる必要性が感じられない。

プログラマについても同じことが言える。1つの会社にずっといて、名もない職業エンジニアをやっているなら、オープンソースのソフトウェアを公開して、仲間と切磋琢磨しながらものづくりをしたいと多くの人が思うだろう。もし仮に、わき目もふらずに職業エンジニアの道を突き進んだとして、いったい何が待っているというのか。

自分としては、こういう感覚が普通なのかなぁと思っているのだけれど。たまに人と話していると、メディアの求心力とか、昔ながらのプロ指向ヒエラルキーがまだ有効だと思っている人と出会って違和感を感じる。

そういうのが完全になくなったとは思わないけど、どうなんだろうねぇ……。
2006-11-22 01:13:07 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# なかなか…

いいパンチだったぜぇぇぇぇ。
2006-11-22 00:23:06 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-11-19

# 自分が惚れるような自分、または心の中に羅針盤を持つこと

自分の性的問題を解決するための指針としては、ぼくはこう考えてるっす。

要するに、「もし自分が異性だとしても、自分というのは惚れるに値するか? もしいまそれに値しないのだとしたら、いまなにをすべきか」。

モテたいと思ったとき、人は「自分に一般的な価値があるか?」と考えがちだけど、そうじゃなくてというところからスタートしています。多くの人から好かれたりモテたりすることが、本当の意味でモテなの?と。

いや、もし仮に多くの人から好かれることがモテだとしてもだよ? 自分がそうなりたいの? たとえばキムタクとか、多くの女性からキャーキャー言われてるけど、ああなりたいの? 本当の本当に、キムタクのように多くの人から好かれることがあなたの人生にとっての至上命題なの? もしそうなれたら満足なの?

違うでしょう? きっとキムタクになれたとしても、どこかで不満は残る。多くの女性にキャーキャー言われたとしても、たった一人、自分の好きな人に振り向いてもらえないのなら意味がない。それに、自分のやりたいことってあるよね? 「キャーキャー言われること」が本当に自分のやりたいことなのか。多くの異性と付き合うために自分は生まれてきたのか。違うよね。

ねぇ、もし自分が異性だとして、自分のことを好きになれそうですか? ねぇ、自分がやりたいことを分かっていない人に、あなたは惚れますか? あなたはいったい、どんな人が好きなんですか? たった一人、自分の好きな人ってどんな人ですか? もしその人に会えたら、あなたはなにをしてあげたいですか?

そういうところをずっと考えていれば、多くの人からは好かれなかったとしても、見てくれる人はきっといると思う。少なくとも、自分が自分のことを見てやれないようじゃ、誰かに自分を見てもらおうなんてのは甘ったれていると思う。自分にモテない人間が、誰かからモテるはずがないし、顔や容姿が良くてモテたところでたいした意味はない(顔や容姿しか目に入らない(馬鹿な)男や女が欲しいのなら別だが)。そんなのは時間の無駄だ。
2006-11-19 13:19:57 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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