メッセージ。 - diary
2006-11-12
# 表現について
たとえば、好きな人に「あなたが好きです」と言うことは、どうもなんか違う気がする。
好きなことは好きなんだけれども、それを伝える必要がないと感じてしまう。それに、自分が好きと伝えることで、何かが変わってしまうのは嫌だ。
何かが欲しいわけじゃない。いまのあなたや、あなたを取り巻く世界が好きなのであって、好きと伝えるとそれは変化してしまうかもしれない。
変化そのものを怖れるわけじゃない。自分が何かをするにせよ、しないにせよ、あなたやあなたを取り巻く世界は時間とともに変わってしまうわけだから。
ただその変化において、自分というものが必要以上に大きなファクターとなりたくない。望むのはあなたの世界のことであって、自分や、自分とその世界との関係ではない。
だから、何かを感じたとしても、それを表現することははばかられることだ。そういう状況においては、表現などというものをしないほうがいいのかもしれない。そう考えることはよくあって、実際に表現しないことも多い。
いや。正確に言えば、表現しないのではなくて、できないのかもしれないけれども。とにかく、表現というものにまつわるこの感じは難しい。それは本当に、罪深いもののように思われる。表現は祈りに近い。
好きなことは好きなんだけれども、それを伝える必要がないと感じてしまう。それに、自分が好きと伝えることで、何かが変わってしまうのは嫌だ。
何かが欲しいわけじゃない。いまのあなたや、あなたを取り巻く世界が好きなのであって、好きと伝えるとそれは変化してしまうかもしれない。
変化そのものを怖れるわけじゃない。自分が何かをするにせよ、しないにせよ、あなたやあなたを取り巻く世界は時間とともに変わってしまうわけだから。
ただその変化において、自分というものが必要以上に大きなファクターとなりたくない。望むのはあなたの世界のことであって、自分や、自分とその世界との関係ではない。
だから、何かを感じたとしても、それを表現することははばかられることだ。そういう状況においては、表現などというものをしないほうがいいのかもしれない。そう考えることはよくあって、実際に表現しないことも多い。
いや。正確に言えば、表現しないのではなくて、できないのかもしれないけれども。とにかく、表現というものにまつわるこの感じは難しい。それは本当に、罪深いもののように思われる。表現は祈りに近い。
2006-11-11
# いじめと集団の関係
2006-11-10
# ニュースなんてどこが面白いんだ
http://jm.vis.ne.jp/sbox/index.cgi?StoreRoom%2f2006%2f11#ID08
子供のころ、テレビを観ようとしてよく悔やしい目にあった。父親が、「ニュースを観たい」といってチャンネルを替えてしまうのだ。「ニュースなんてどこが面白いんだ」。それは、ぼくの悔やしまぎれの言葉であり、また率直な感想でもあった。
子供のころ、テレビを観ようとしてよく悔やしい目にあった。父親が、「ニュースを観たい」といってチャンネルを替えてしまうのだ。「ニュースなんてどこが面白いんだ」。それは、ぼくの悔やしまぎれの言葉であり、また率直な感想でもあった。
2006-11-09
# 続 0.999...は1か
先日話題になった0.999...は1かについて、なるほどと感じるコメントをいただいたのでリンク。
頭の中のモヤモヤっとしがちなところが、数学の外にいる人間でも分かるような、うまい言葉になっていると感じました。ちょっと分かったような気がします。
それなりに数学を勉強して経験していくと、そのうち、そう考えざるを得なくなるってこと。
頭の中のモヤモヤっとしがちなところが、数学の外にいる人間でも分かるような、うまい言葉になっていると感じました。ちょっと分かったような気がします。
2006-11-08
# 自己愛とか
自己愛は、そりゃあるさ。あっていいものじゃないかと思う。ただ、なんつーのかな。
ほかの人にだっていいところがある。あの人はすごい。すごい賢いとか、すごい鋭いとか。すごい優しいとか、勇気があるとか、ある分野ですごい積み重ねを持ってるとか。自分は持っていないものを、他者の中に見つけることがある。
そういった、「自分は持っていないもの」を、単に好きでいればいいだけじゃないのかなぁ。自分のことも好きだけど、ほかのあの人のことも、この人のことも好き。自己を愛するのと同じだけ他者を愛することができるなら、総体として「自己愛が強すぎる」という状態にはならないと思う。
それでいいんじゃないの? よく知らんけど。そのほうが楽しいように思うべさ。
ほかの人にだっていいところがある。あの人はすごい。すごい賢いとか、すごい鋭いとか。すごい優しいとか、勇気があるとか、ある分野ですごい積み重ねを持ってるとか。自分は持っていないものを、他者の中に見つけることがある。
そういった、「自分は持っていないもの」を、単に好きでいればいいだけじゃないのかなぁ。自分のことも好きだけど、ほかのあの人のことも、この人のことも好き。自己を愛するのと同じだけ他者を愛することができるなら、総体として「自己愛が強すぎる」という状態にはならないと思う。
それでいいんじゃないの? よく知らんけど。そのほうが楽しいように思うべさ。