メッセージ。 - diary
2006-11-06
# どうでもいい話の扱い
んー。たとえば新山さんの日記なんかを読んでいると、「どうでもいいけど」という書き出しを目にすることが多い(本人もそれを自覚していてパロディにしているフシがある)。
で、その背景にあるメンタリティは、明らかに「世間一般にはきっとどうでもいいことでしょうが」だと思うんだよなぁ。「このような文章を読んでも役には立たないでしょうけど、個人的には面白いと思ったので書きますよ」という感じ。そこには、「すみませんが」とか「でも何か価値があるかもしれない」というニュアンスを含んでいる。
役に立たない文章でお目汚しをして申し訳ないとか、あなたの時間を奪ってしまって申し訳ないとか、面白い文章を書く人の中に、そういうメンタリティを持つ人がいる。ぼくはそういう人の文章が好きだし、そういう人の「どうでもいいけど」は美しいと思う。
「どうでもいいけど」をまったく別の方法で使う人もいるというのは想像にかたくなかったけど。んー。「本当は「どうでもよくない」けど、読んでいただく価値があるかとためらう」もこのリストに含まれていてほしいものだ。
で、その背景にあるメンタリティは、明らかに「世間一般にはきっとどうでもいいことでしょうが」だと思うんだよなぁ。「このような文章を読んでも役には立たないでしょうけど、個人的には面白いと思ったので書きますよ」という感じ。そこには、「すみませんが」とか「でも何か価値があるかもしれない」というニュアンスを含んでいる。
役に立たない文章でお目汚しをして申し訳ないとか、あなたの時間を奪ってしまって申し訳ないとか、面白い文章を書く人の中に、そういうメンタリティを持つ人がいる。ぼくはそういう人の文章が好きだし、そういう人の「どうでもいいけど」は美しいと思う。
「どうでもいいけど」をまったく別の方法で使う人もいるというのは想像にかたくなかったけど。んー。「本当は「どうでもよくない」けど、読んでいただく価値があるかとためらう」もこのリストに含まれていてほしいものだ。
・本当は「どうでもよくない」のに、興味があると思われるのは悔しいので「どうでもよい」と言ってしまう。(意識、無意識纏めて)・本当に「どうでもよい」が、何らかの意図を持って話題にあげる。・中身については「どうでもよい」が、その中身によって起こる現象や状態や影響について興味があり分析を加える。
2006-11-02
# ご意見感謝
2. w3mこれは結構てこずりました。というか、なんとなく釈然としません。昔は、塚本さんのページでw3m+OpenSSL+libgc6というインストールでOK、となっていたんですがlibgccが0.9.8系に上がったのに伴い、yfさんのメッセージ。というHPで公開されている「OpenSSL0.9.8対応w3m」を入れて見たんですが・・・やれlibgcがないとか、libzがいるとか・・・結局動いたんですが、何か釈然としません。でも、ytさんのビルドされたバージョンの動作自体には満足しています。
あーなんか、すみませんすみません。ぼくも結構「よく分からんけど動いてる」という状態でパッケージを作っちゃってるもんで。ちゃんと仕組みを把握して、依存関係とか検証しないとなーとは思っとるんですが、なかなかスキルと時間が追い付かないのです。すんまそん。
2006-11-01
# 言葉の暴れる力とか
ソーシャルブックマークについてというページで、昔の日記に言及していただいているのに気付いた。
で、このコメントを拝見していて思ったのだけど、不快なのは、自分の知らないところで自分の書いたものが罵られていることではなくて、正確には自分を罵る言葉が共感をもって迎えられていることにあるんじゃないだろうか。
つまり、自分を批判し罵る言葉の存在自体が不快なんじゃなくて、自分を批判し罵る言葉や意見が、どこかの人たちに広まっていることが不快なのかなぁ、と。あと、書いたものを罵られることよりも、書いた人間を罵られることのほうが不快な気がする。
はてなブックマークのようなSBS(ソーシャルブックマーク)のコメントは、それを知らない人から見たら恐怖感を感じるものでありうる」という意見があった。自分の知らないところで自分の書いたものが評論され罵倒されているというのは不快だ...
で、このコメントを拝見していて思ったのだけど、不快なのは、自分の知らないところで自分の書いたものが罵られていることではなくて、正確には自分を罵る言葉が共感をもって迎えられていることにあるんじゃないだろうか。
つまり、自分を批判し罵る言葉の存在自体が不快なんじゃなくて、自分を批判し罵る言葉や意見が、どこかの人たちに広まっていることが不快なのかなぁ、と。あと、書いたものを罵られることよりも、書いた人間を罵られることのほうが不快な気がする。
2006-10-31
# 「知らない言葉」からつらつらと
うー。チラシの裏。
原稿を作るとき、ぼくが気になるのは「知らない言葉がないかどうか」です。技術文書なんかはとくにそうですけど、専門用語が頻出して、門外漢にとっては読むのが大変なんですよね。
ある一定以上、知らない語句が文章に含まれていると、人はその文章を理解できなく(読む気力がなく)なるように思っています。また、読者が知らないだろう言葉を使うときは、まず定義の説明があって、そのあとその言葉を文章の中で使うべきだと思っています。(逆に言えば、そうなっていない文章が多いです。)
そのほか、あまりにもバズワードが多い文章や、「こんな言い回し、どこの誰がするんだ」という文章も、非常に読みにくいし、「読者に分かってもらおうという意思があるのかな?」と憤りさえ感じてしまうことがあります。
言語感覚にクセがある人っているので、それはそれでしょうがないのですが、本人のためにも、周りのためにもならないなぁと思いながら校正します。また、「読者が知らない(かもしれない)言葉」に対して鈍感な態度を取る人も、「もうちょっと頑張ってくれよぅー」と思いながら校正しています。
そういう文章をいただいた場合、単に文言を変更するだけでなく、前後の段落を入れ替えたり、コラムを追加したり、ブロックレベルで変更しなければいけないことも多いんですよね。もうこうなると、校正か推敲か分からないです。
校正と推敲の境界は本当にあいまいで、多くのケースで編集者が実際にやるのは、校正ではなく推敲になってしまっていると思います。そのこと自体が、良いとか悪いとかは検証の余地があるとは思いますが、とりあえず直近の問題として、自分の文章に手を入れられるのが嫌なら、自分でよく推敲したほうがいいと思うんですよね。
編集者も、やりたくて推敲をしているわけじゃないので。いや、一部にはやりたくてやっているような、人格や技術やセンスに問題のある編集者もいるとは思いますけど。
技術者もそうですけど、編集者も職人的な技を要求されるところが多いです。また、デザインセンス(工業デザインにおけるセンス)のようなものを求められる仕事です。
たとえば、高度な技術で作られたソフトウェアが実際に「デザインに優れたソフトウェア」かというと、そうではないわけで。ソフトウェアの使い勝手が良かったり、メンテナンスしやすかったりすることと、高度な技術が組み込まれているかどうかは、純粋に正比例するわけではないと思うのですよね。
あー脱線しましたけど。言いたかったのは、能力やセンスのない編集者にあたる危険というのもありますねということで。運不運も大きくて一概には言えない。ただ、なんていうんですかねぇ。チームでやるわけですから、お互いの優れた能力を使いあって、結果的に良いものを作りたいと、ぼくは思います。
相手の優れた能力を、ぼくは見くびることはしたくない。チームの構成員には、悪いところもあるけれども、とても優れたところもある。その優れたところは、自分にはないもので、ぜひ使わせてもらいたい。
ぼくが問題を指摘するのは、別に怒っているわけじゃなくて、否定したいわけじゃなくて、「いいところがある」、「この原石には磨く価値がある」と思うからこそ、頑張っているつもりだったりします。まぁ、自分で自分のことを頑張っているなんていうこと自体が、救いようのないアホなんですけど。
なんつーのかなぁ。チームを運営するというのは難しいなぁと。こんなところに書いてないで、直接相手に言えばいいんですけど。でも、なんかそれも違うかなぁという気もするんですよね。言わなきゃ分からないやつには言っても分からないじゃないけど、言わなきゃ分かってもらえないなら、自分のやっていることがまずい可能性もあるわけで。
言葉で発するメッセージと、行動で発するメッセージに齟齬があるのなら、それはよくない状態です。体が右を向いている状態で、「ぼくは左へ行こうと思います」って言うことは良い結果を生まない。ぼくの体が実際に右を向いているつもりでも、相手からそう見えていないのでは、何かどこか解決すべき問題が残っている。まーいつも、そういう状態と戦っております。
原稿を作るとき、ぼくが気になるのは「知らない言葉がないかどうか」です。技術文書なんかはとくにそうですけど、専門用語が頻出して、門外漢にとっては読むのが大変なんですよね。
ある一定以上、知らない語句が文章に含まれていると、人はその文章を理解できなく(読む気力がなく)なるように思っています。また、読者が知らないだろう言葉を使うときは、まず定義の説明があって、そのあとその言葉を文章の中で使うべきだと思っています。(逆に言えば、そうなっていない文章が多いです。)
そのほか、あまりにもバズワードが多い文章や、「こんな言い回し、どこの誰がするんだ」という文章も、非常に読みにくいし、「読者に分かってもらおうという意思があるのかな?」と憤りさえ感じてしまうことがあります。
言語感覚にクセがある人っているので、それはそれでしょうがないのですが、本人のためにも、周りのためにもならないなぁと思いながら校正します。また、「読者が知らない(かもしれない)言葉」に対して鈍感な態度を取る人も、「もうちょっと頑張ってくれよぅー」と思いながら校正しています。
そういう文章をいただいた場合、単に文言を変更するだけでなく、前後の段落を入れ替えたり、コラムを追加したり、ブロックレベルで変更しなければいけないことも多いんですよね。もうこうなると、校正か推敲か分からないです。
校正と推敲の境界は本当にあいまいで、多くのケースで編集者が実際にやるのは、校正ではなく推敲になってしまっていると思います。そのこと自体が、良いとか悪いとかは検証の余地があるとは思いますが、とりあえず直近の問題として、自分の文章に手を入れられるのが嫌なら、自分でよく推敲したほうがいいと思うんですよね。
編集者も、やりたくて推敲をしているわけじゃないので。いや、一部にはやりたくてやっているような、人格や技術やセンスに問題のある編集者もいるとは思いますけど。
技術者もそうですけど、編集者も職人的な技を要求されるところが多いです。また、デザインセンス(工業デザインにおけるセンス)のようなものを求められる仕事です。
たとえば、高度な技術で作られたソフトウェアが実際に「デザインに優れたソフトウェア」かというと、そうではないわけで。ソフトウェアの使い勝手が良かったり、メンテナンスしやすかったりすることと、高度な技術が組み込まれているかどうかは、純粋に正比例するわけではないと思うのですよね。
あー脱線しましたけど。言いたかったのは、能力やセンスのない編集者にあたる危険というのもありますねということで。運不運も大きくて一概には言えない。ただ、なんていうんですかねぇ。チームでやるわけですから、お互いの優れた能力を使いあって、結果的に良いものを作りたいと、ぼくは思います。
相手の優れた能力を、ぼくは見くびることはしたくない。チームの構成員には、悪いところもあるけれども、とても優れたところもある。その優れたところは、自分にはないもので、ぜひ使わせてもらいたい。
ぼくが問題を指摘するのは、別に怒っているわけじゃなくて、否定したいわけじゃなくて、「いいところがある」、「この原石には磨く価値がある」と思うからこそ、頑張っているつもりだったりします。まぁ、自分で自分のことを頑張っているなんていうこと自体が、救いようのないアホなんですけど。
なんつーのかなぁ。チームを運営するというのは難しいなぁと。こんなところに書いてないで、直接相手に言えばいいんですけど。でも、なんかそれも違うかなぁという気もするんですよね。言わなきゃ分からないやつには言っても分からないじゃないけど、言わなきゃ分かってもらえないなら、自分のやっていることがまずい可能性もあるわけで。
言葉で発するメッセージと、行動で発するメッセージに齟齬があるのなら、それはよくない状態です。体が右を向いている状態で、「ぼくは左へ行こうと思います」って言うことは良い結果を生まない。ぼくの体が実際に右を向いているつもりでも、相手からそう見えていないのでは、何かどこか解決すべき問題が残っている。まーいつも、そういう状態と戦っております。
# 0.999...は1か
1/3は0.333… 2/3は0.666…では3/3は0.999…でなくてなんで1になるんでしょうか。子供の頃からずっと疑問に思っていました。僕は典型的な文系人間なので、そんな僕にも理解できるように、なるべくわかりやすくお願いします。
少し前にはてなブックマークで話題になっていたやつ。ふと思い出して、考えてみたくなったのでメモ。ポイントは、0.999...は1であるか否か、なんだと思うんだよなぁ……。リンク先のリンク先(Wikipedia?)では、0.999...=1が数学的に証明されているらしいけど、どうも腑に落ちない。
それにしても、これはいい疑問の持ち方だと思う。ふとした疑問を、「なぜだろう?」とずっと考え続けるというのはすごくいい。(「すごくいい」ってのは、「いい」の定義があいまいだけど。とにかくぼくはこの人の精神の有り様が好きだ。)
# まぁ、それだけじゃないんですけど
趣旨とは違うところに反応してみますが。
お前は俺か、と思った。
……どうでもいいけど、こういうタイプの女性は、傾向として魅力的だと思う。映画のヒロインなんかにもありそうだけど、熱いところと冷めたところが共存してて、思わぬところで切り替わるような人。素直な表情と冷めた思考/強い意思みたいなのも高ポイント。いま笑ったと思ったら突然怒りだしたりするのもまたよし。
ところで私というのは、自分で言うのもなんですが、至極素直な性質でして、なんというか、「目の前で相手が何かを力説すれば、とにかくそれをその場では信じる」タイプです。(中略)私はあくまで「その場では信じる」タイプの人間なので、その場というやつが通り過ぎると、あっという間に正気に戻り、一瞬前の自分を疑ってかかりはじめます。
お前は俺か、と思った。
……どうでもいいけど、こういうタイプの女性は、傾向として魅力的だと思う。映画のヒロインなんかにもありそうだけど、熱いところと冷めたところが共存してて、思わぬところで切り替わるような人。素直な表情と冷めた思考/強い意思みたいなのも高ポイント。いま笑ったと思ったら突然怒りだしたりするのもまたよし。