メッセージ。 - diary
2020-09-13
# にゃー
先日、テレビで『借りぐらしのアリエッティ』をやっていたので見てみた。内容は「最高に面白かった」というほどではないけど、悪くはない。「まぁまぁ面白かった」ぐらいかな。
ストーリーとしては、人間の生活の近くに隠れ棲む小人の家族と薄幸の人間の少年のふれあいを描いている。小人の家族は言葉を話し、前近代的な文化程度の生活を送っている。日夜危険を犯して人間の家に潜入し、生活物資(ティッシュペーパーとか砂糖とか)を拝借して暮らす彼ら。
自らの生活を「借りぐらし」と呼んでいるが、その生活実態は狩猟に類似していて、「狩り」と「借り」をかけていることが分かる。また、小人たちは絶滅の危機に瀕しているらしく、家族以外の仲間がこの世界に生存していることを知らず不安がっている。
ジブリ作品だけあって自然風景の描写が非常に美しい。面白いなと感じたのは、人間の暮らしを小人の視点・スケールから眺める描写。巨人(小人からみれば人間は巨人だ)の家に、危険を犯して潜入し狩りを行うシーンに迫力があり楽しかった。また、主人公は父親からようやく借りに出ることを許された年頃の女の子で、大人への階段を踏み出す心情もまた、観ているものを惹き込む。
ところで、ぼくは結構映画を観たあとで、ネットのレビューを読んでみたくなる。他の人も同じように感じているのを見るのはうれしいし、自分では気付けなかった視点や発見を得られるのが楽しいからだ。けれども、ネット上の映画レビューを読むと落胆することも多い。自分にとって面白いと思った作品や、逆につまらないと感じた作品に、真逆のレビューがついて、予想もしない点数になっていることが多いからだ。
別に、他の人がどう感じようがそれは自由だし、自分の感じ方や感想が正しいなどというつもりは毛頭ない。ただ、他の人が意見をいっているのを見ると、思っていた以上に世界が多様で、自分とは異なる考えの人がたくさんいることを目の当たりにして、なんとも言えない気持ちになるのだ。
たとえば子供のころ、ウルトラマンや水戸黄門や暴れん坊将軍やタイムボカンシリーズのようなテレビ番組をよくやっていた。それらの勧善懲悪ものは、毎回ワンパターンで、ある意味で平和だった。善が悪を倒す。善には優しさがあり、話せば分かるという感覚があり、義があった。いまのように、何が善で何が悪か分からないとか、正しさは人それぞれであるとか、わかり会えない人がいるとか、世の中にはいろんな善があるとか、そういうものはなかった。
『借りぐらしのアリエッティ』に話を戻す。今回見たレビューの中に、小人たちのことを怒っている人がいた。小人たちがやっていることは泥棒だと。砂糖やティッシュペーパーを盗られるのは嫌だと。
だけれども、小人たちが持っていくのは一晩に角砂糖の1個とか、ティッシュペーパー1枚とかなんだよ。そんなちょっとのこと、別にいいじゃんというのが、主人公の小人に感情移入したぼくなんかの感想なんだけど、そうじゃない人もいるのだ。そして、別に「そうじゃない人」が悪いというわけではない。世界は実際のところ多様なのだろう。かつてぼくがウルトラマンや水戸黄門なんかを楽しんでいたシンプルな世界観のほうが、現実離れしているのだろう。仕方がない。どうしようもない。たぶん。
たしかに、小人たちは自らのことを「借りぐらし」と呼んでいるのだけれども、その一方で「返す」ということについては一言も言及がない。一般的に言って、借りたものは返さなければいけない。でも、彼らには返すという言葉や行動が見えなかった。なぜなのか。
それはたぶん、「借り」イコール「狩り」であるからではないか。狩猟民族は、羊やアリクイや猿やワニなど、いろんな生き物を狩って暮らしている。それはたしかに、自然の中から命を借りていることと等価だ。我々は、「狩られるもの」の同意を得て彼らの命をいただいているわけではない。彼らの同意を得ずに、こちらの一方的な意思で彼らの命を奪っている。我々は、日々の暮らしのなかで、ほかのものの命をいただいて生きている。そしてそれは、簡単には返すことができないものだ。
いったいこの状態を、何と表現すればよいのか。誰も「自分は泥棒であり強盗だ。今日も1つの命を奪った」などとは公言しない。なぜだろう?本当は皆、この状態を心苦しく思っているのか?この苦しみを、誰も言わないだけなのか?ぼくにはよく分からない。人間たちは日々多くの情報をネットワーク上で受発信しているが、そういった情報は単純集計で0.1%にも満たないのではないか。その意識や理解すらない人もいるようにさえ思われる。
そういった状況のなかで、自分たちの生活のことを「借りぐらし」と呼べるというのは、まだ誠実であるように感じる。「借り」であることを知っているならば、いつか「返す」日のことも理解しているのだろうから。狩猟民族であれば、なおさら借りと返しに近いところで暮らしているはずだ。
そういう意味では、今回の物語が描いているのは、(滅びゆく)小人と人間の関係ではなく、(滅びゆく)狩猟民族と農耕民族の関係なのではないかと思った。映画のなかに、一人嫌なことをする人間が出てくる。しかし、準主人公の少年たちは、嫌なことをする人間を排除したりはしない。たぶん、農耕民族の生活では、そういった人間とも折り合いをつけなければ暮らしていけないのだろう。そして、それは別の何かを危険に晒したり、大事なものを傷つけてしまったりすることを意味するのだろう。
果たして農耕民族は、世界から様々なものを借り、生かされている自覚を持っているのだろうか。「自分の持ち物だ」と思っているものが、どこかから盗まれてきたものだという理解を持てているのだろうか。映画を見ているあいだ、ぼくは心の片隅で、ある形のハッピーエンドをずっと望まずにはいられなかった。
ストーリーとしては、人間の生活の近くに隠れ棲む小人の家族と薄幸の人間の少年のふれあいを描いている。小人の家族は言葉を話し、前近代的な文化程度の生活を送っている。日夜危険を犯して人間の家に潜入し、生活物資(ティッシュペーパーとか砂糖とか)を拝借して暮らす彼ら。
自らの生活を「借りぐらし」と呼んでいるが、その生活実態は狩猟に類似していて、「狩り」と「借り」をかけていることが分かる。また、小人たちは絶滅の危機に瀕しているらしく、家族以外の仲間がこの世界に生存していることを知らず不安がっている。
ジブリ作品だけあって自然風景の描写が非常に美しい。面白いなと感じたのは、人間の暮らしを小人の視点・スケールから眺める描写。巨人(小人からみれば人間は巨人だ)の家に、危険を犯して潜入し狩りを行うシーンに迫力があり楽しかった。また、主人公は父親からようやく借りに出ることを許された年頃の女の子で、大人への階段を踏み出す心情もまた、観ているものを惹き込む。
ところで、ぼくは結構映画を観たあとで、ネットのレビューを読んでみたくなる。他の人も同じように感じているのを見るのはうれしいし、自分では気付けなかった視点や発見を得られるのが楽しいからだ。けれども、ネット上の映画レビューを読むと落胆することも多い。自分にとって面白いと思った作品や、逆につまらないと感じた作品に、真逆のレビューがついて、予想もしない点数になっていることが多いからだ。
別に、他の人がどう感じようがそれは自由だし、自分の感じ方や感想が正しいなどというつもりは毛頭ない。ただ、他の人が意見をいっているのを見ると、思っていた以上に世界が多様で、自分とは異なる考えの人がたくさんいることを目の当たりにして、なんとも言えない気持ちになるのだ。
たとえば子供のころ、ウルトラマンや水戸黄門や暴れん坊将軍やタイムボカンシリーズのようなテレビ番組をよくやっていた。それらの勧善懲悪ものは、毎回ワンパターンで、ある意味で平和だった。善が悪を倒す。善には優しさがあり、話せば分かるという感覚があり、義があった。いまのように、何が善で何が悪か分からないとか、正しさは人それぞれであるとか、わかり会えない人がいるとか、世の中にはいろんな善があるとか、そういうものはなかった。
『借りぐらしのアリエッティ』に話を戻す。今回見たレビューの中に、小人たちのことを怒っている人がいた。小人たちがやっていることは泥棒だと。砂糖やティッシュペーパーを盗られるのは嫌だと。
だけれども、小人たちが持っていくのは一晩に角砂糖の1個とか、ティッシュペーパー1枚とかなんだよ。そんなちょっとのこと、別にいいじゃんというのが、主人公の小人に感情移入したぼくなんかの感想なんだけど、そうじゃない人もいるのだ。そして、別に「そうじゃない人」が悪いというわけではない。世界は実際のところ多様なのだろう。かつてぼくがウルトラマンや水戸黄門なんかを楽しんでいたシンプルな世界観のほうが、現実離れしているのだろう。仕方がない。どうしようもない。たぶん。
たしかに、小人たちは自らのことを「借りぐらし」と呼んでいるのだけれども、その一方で「返す」ということについては一言も言及がない。一般的に言って、借りたものは返さなければいけない。でも、彼らには返すという言葉や行動が見えなかった。なぜなのか。
それはたぶん、「借り」イコール「狩り」であるからではないか。狩猟民族は、羊やアリクイや猿やワニなど、いろんな生き物を狩って暮らしている。それはたしかに、自然の中から命を借りていることと等価だ。我々は、「狩られるもの」の同意を得て彼らの命をいただいているわけではない。彼らの同意を得ずに、こちらの一方的な意思で彼らの命を奪っている。我々は、日々の暮らしのなかで、ほかのものの命をいただいて生きている。そしてそれは、簡単には返すことができないものだ。
いったいこの状態を、何と表現すればよいのか。誰も「自分は泥棒であり強盗だ。今日も1つの命を奪った」などとは公言しない。なぜだろう?本当は皆、この状態を心苦しく思っているのか?この苦しみを、誰も言わないだけなのか?ぼくにはよく分からない。人間たちは日々多くの情報をネットワーク上で受発信しているが、そういった情報は単純集計で0.1%にも満たないのではないか。その意識や理解すらない人もいるようにさえ思われる。
そういった状況のなかで、自分たちの生活のことを「借りぐらし」と呼べるというのは、まだ誠実であるように感じる。「借り」であることを知っているならば、いつか「返す」日のことも理解しているのだろうから。狩猟民族であれば、なおさら借りと返しに近いところで暮らしているはずだ。
そういう意味では、今回の物語が描いているのは、(滅びゆく)小人と人間の関係ではなく、(滅びゆく)狩猟民族と農耕民族の関係なのではないかと思った。映画のなかに、一人嫌なことをする人間が出てくる。しかし、準主人公の少年たちは、嫌なことをする人間を排除したりはしない。たぶん、農耕民族の生活では、そういった人間とも折り合いをつけなければ暮らしていけないのだろう。そして、それは別の何かを危険に晒したり、大事なものを傷つけてしまったりすることを意味するのだろう。
果たして農耕民族は、世界から様々なものを借り、生かされている自覚を持っているのだろうか。「自分の持ち物だ」と思っているものが、どこかから盗まれてきたものだという理解を持てているのだろうか。映画を見ているあいだ、ぼくは心の片隅で、ある形のハッピーエンドをずっと望まずにはいられなかった。
2020-04-25
# にゃー
数週間前ぐらいに、感染症の専門医の人が「新型コロナウィルス感染症疑いの患者さんは、クリニックではこうやって診察・検査するんですよ」ということを動画で説明してくれていたのを見た。果たしてその内容は、大変繁雑でナイーブな手順の積み重ねだった。
https://www.youtube.com/watch?v=QUlRJqx3STI
対象の患者さんが、他の患者さんやスタッフと接触しないよう立ち入る場所を制限したり、ドアや什器などを触らせないようにしたり、医師はマスクとゴーグルと使い捨てガウンで完全装備して脱ぎ方にも細心の注意を払い、ことあるごとに念入りに手洗いし、他の人に感染しないよう、次の疑いの人を検査する前に30分〜1時間換気をして誰もそのエリアに入れないようにするといった次第。
すごく大変そうだった。でも思ったんだけど、そんなに大変なことをたくさんの疑い患者に対して適用するのはリソースと時間がかかりすぎるし、そもそも今回のコロナウイルスは「感染力がものすごい」×「無症候だけど他者への感染力を保持する感染者がたくさんでる」という特徴のせいで「疑いの人」だけそんなに気を遣って頑張っても意味がないんじゃないか。
※書き方が乱暴で申し訳ないです。プロの人は危険を顧みず寝る時間も惜しんで頑張ってくれてると思うし、外野からあれこれいったり非難をする意図はこの文章にはまったくないです。ただ、この未曾有の非常事態に対し、何ができるんだろう?何をすればよかったんだろう?と一市民が考えているだけです。
肺炎も発熱も咳もめまいも味覚障害もないけれども、怪我をしたり歯が痛かったり、じんましんが出たり、妊娠していたりという人が、毎日たくさん診察を希望する。それらの人々が新型コロナウィルスに感染している可能性が十分ある現時点で、それ以外の「疑い」の人にだけ細心の注意を払っても焼け石に水だろう。
本来であるならば、すべての患者さんに対して、すべてのスタッフがつねに完全防備して接し、なおかつ一人診察するごとに院内の経路を消毒して次の患者を呼び入れなければいけない。そうでなければ、「疑い」の人だけものすごく慎重に取り扱う行為と釣り合いが取れない。医療従事者や、クリニックに集まる患者さんをリスクから十分守れない。
けれども実際には、医療防護具や消毒薬のストックという観点からだけでも、すべての人にそんな対応をできないのが現実だ。だからそういう意味では、すでに医療は崩壊している。平時の水準の医療は、すでにできる状況ではなくて、すでに一線を超えた非常事態にある。普段であれば守れる命が、今は守れない。医療従事者も患者も文字通り命の危険にさらされている。だから外出を控えなければならないのだ。
※逆に言えば、「怪我や病気をしたり高齢になったら死ぬのは当たり前」「人間はもっと死んでいい」といったふうに人間の命の価値を減じた価値観に転回できるなら、外出制限をせず元に近い生活ができるだろう。
医療行為というのは、基本的に物理的な接触をしなければ不可能なものだ。人間の身体を診察するのであるから、人間の身体を物理的に観測せざるを得ない。その行為を機械が行えるならばいいのだけれど、現時点ではそうなっていない。感染症に対して脆弱である人間が、人間を診るしかないし、患者が自分で検査をできる社会制度にもなっていないのだ。
その結果、病院やクリニックへの人の去来を止めることができないので、そこがクラスターになる可能性がどうしても残ってしまう。院内のスタッフがどれほど気をつけていても、患者が集まって待合室に入ることでウィルスが持ち込まれてしまう。
これに対しての対策としては、たとえば(1)一人ひとりの患者の検査するごとに消毒ができ、(2)検査も機械で行えるような感染症専門の特殊装備車が将来的に必要ではないかと愚考する。
現時点ではそういうものが存在せず、専門家といえども素手で(努力と根性で)戦っている状況だ。ぼく自身は、医療関係者の方々が大変なストレスと過重労働のなか頑張ってくださっているのを、陰ながら応援するぐらいしかできない。微力ながらでも何かをしたいけれども、何もできないのがもどかしい。
https://www.youtube.com/watch?v=QUlRJqx3STI
対象の患者さんが、他の患者さんやスタッフと接触しないよう立ち入る場所を制限したり、ドアや什器などを触らせないようにしたり、医師はマスクとゴーグルと使い捨てガウンで完全装備して脱ぎ方にも細心の注意を払い、ことあるごとに念入りに手洗いし、他の人に感染しないよう、次の疑いの人を検査する前に30分〜1時間換気をして誰もそのエリアに入れないようにするといった次第。
すごく大変そうだった。でも思ったんだけど、そんなに大変なことをたくさんの疑い患者に対して適用するのはリソースと時間がかかりすぎるし、そもそも今回のコロナウイルスは「感染力がものすごい」×「無症候だけど他者への感染力を保持する感染者がたくさんでる」という特徴のせいで「疑いの人」だけそんなに気を遣って頑張っても意味がないんじゃないか。
※書き方が乱暴で申し訳ないです。プロの人は危険を顧みず寝る時間も惜しんで頑張ってくれてると思うし、外野からあれこれいったり非難をする意図はこの文章にはまったくないです。ただ、この未曾有の非常事態に対し、何ができるんだろう?何をすればよかったんだろう?と一市民が考えているだけです。
肺炎も発熱も咳もめまいも味覚障害もないけれども、怪我をしたり歯が痛かったり、じんましんが出たり、妊娠していたりという人が、毎日たくさん診察を希望する。それらの人々が新型コロナウィルスに感染している可能性が十分ある現時点で、それ以外の「疑い」の人にだけ細心の注意を払っても焼け石に水だろう。
本来であるならば、すべての患者さんに対して、すべてのスタッフがつねに完全防備して接し、なおかつ一人診察するごとに院内の経路を消毒して次の患者を呼び入れなければいけない。そうでなければ、「疑い」の人だけものすごく慎重に取り扱う行為と釣り合いが取れない。医療従事者や、クリニックに集まる患者さんをリスクから十分守れない。
けれども実際には、医療防護具や消毒薬のストックという観点からだけでも、すべての人にそんな対応をできないのが現実だ。だからそういう意味では、すでに医療は崩壊している。平時の水準の医療は、すでにできる状況ではなくて、すでに一線を超えた非常事態にある。普段であれば守れる命が、今は守れない。医療従事者も患者も文字通り命の危険にさらされている。だから外出を控えなければならないのだ。
※逆に言えば、「怪我や病気をしたり高齢になったら死ぬのは当たり前」「人間はもっと死んでいい」といったふうに人間の命の価値を減じた価値観に転回できるなら、外出制限をせず元に近い生活ができるだろう。
医療行為というのは、基本的に物理的な接触をしなければ不可能なものだ。人間の身体を診察するのであるから、人間の身体を物理的に観測せざるを得ない。その行為を機械が行えるならばいいのだけれど、現時点ではそうなっていない。感染症に対して脆弱である人間が、人間を診るしかないし、患者が自分で検査をできる社会制度にもなっていないのだ。
その結果、病院やクリニックへの人の去来を止めることができないので、そこがクラスターになる可能性がどうしても残ってしまう。院内のスタッフがどれほど気をつけていても、患者が集まって待合室に入ることでウィルスが持ち込まれてしまう。
これに対しての対策としては、たとえば(1)一人ひとりの患者の検査するごとに消毒ができ、(2)検査も機械で行えるような感染症専門の特殊装備車が将来的に必要ではないかと愚考する。
現時点ではそういうものが存在せず、専門家といえども素手で(努力と根性で)戦っている状況だ。ぼく自身は、医療関係者の方々が大変なストレスと過重労働のなか頑張ってくださっているのを、陰ながら応援するぐらいしかできない。微力ながらでも何かをしたいけれども、何もできないのがもどかしい。
2020-04-22
# にゃー
新型コロナウイルスの件、率直にいってまるでSFのようだ。つまり、物理法則や自然科学を舞台装置とした壮大な物語。典型的には、序盤に平穏な日常が描かれ、人々は登場人物やそこにある物理法則を理解させられる。まるで犬や猫がその理解の到底及ばないであろう自動車や舗装道路があふれる街の中に放り込まれ、それを所与のものとしてそこに住まわされるように、世界の光景や法則は、「当然のもの」として人々の心と体に描きこまれる。そこに描かれる法則は、ある意味で「願い」であり「祈り」である。
しかしあるとき事件が起こり、平穏な日々は破られる。起こるはずのないことが起こり、人々の「理解」が壊される。「願い」や「祈り」が粉々になる。そして明らかになるのは、『そこに当然あると思っていた日常は、あくまで「法則」が生み出しうる世界の一象限でしかなかった』という事実だ。法則が生み出しうる別の象限の存在が、人々を追い詰めていく。新たな世界が「現実」を上書きしていく。人々は「現実」と戦い、「世界」と戦う。「祈り」や「願い」を求めて道を進む。
しかしあるとき事件が起こり、平穏な日々は破られる。起こるはずのないことが起こり、人々の「理解」が壊される。「願い」や「祈り」が粉々になる。そして明らかになるのは、『そこに当然あると思っていた日常は、あくまで「法則」が生み出しうる世界の一象限でしかなかった』という事実だ。法則が生み出しうる別の象限の存在が、人々を追い詰めていく。新たな世界が「現実」を上書きしていく。人々は「現実」と戦い、「世界」と戦う。「祈り」や「願い」を求めて道を進む。