メッセージ。 - diary

2006-10-11

# 喋りすぎ

あー。しまったなぁ。今日はごちゃごちゃ喋りすぎた。

喋るのはとても楽しかったけど、自分の言いたいことを言っただけなんじゃないかと自己嫌悪。分かったようなことを言って、ぼくはどれだけ分かっているのか。分かってなんかいないはずだ。ぼくなんかの言うことを、黙って聞いてくれるなんて優しい人たちだ。

言うだけなら誰でもできる。まさしく、ぼくが指摘した罠に、自分がはまってしまっているようで嫌だ。言うだけじゃなくて、やらなきゃいけない。本当にやる気なら、問題がどこにあるかだけじゃなくて、どこに進むべきか、道を指し示さなきゃいけない。

大事なのは、当事者意識をもって問題に取り組むこと。「彼のためにやっているから」とか、「彼がこうしないと嫌がるから」と言い訳しながらやっても、結果は出ない。自分のためにやらなきゃいけない。自分も、チームの仲間も。それがないから失敗するんだ。
2006-10-11 22:25:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 数値化できない仕事

http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=200610101

いや、格好いいと思いますよ。いつも、格好いいなぁと思いながら拝見しています。

たしかに、数値化できる部分の価値は低いです。自動化できるってことですからね。それはイコール、計算機でもできるってことで。計算機の価格が下がってきた現在では、わざわざそれを人間がやるのって、非効率なんですよね。

そんなの、人間がやるべきじゃない。絶対人間がやるべきじゃない。そう考える人のほうが、計算機技術者として純粋だと思います。また、そう考えて人間にしかできない仕事に取り組む人のほうが、人間として魅力的だと思います。
2006-10-11 00:15:46 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-10

# さて、どうしましょうね。

どーでもいいことですけど、いまの会社を辞めようかと思っとります。
辞めて何かあてがあるわけじゃないので、プータローをすることになりそうですけど。

生活力は、どっちかと言えばないほうなので、数年後には野垂れ死ぬかもしれません。でもまぁ、それも一興ですかね。いまの場所で、無目的に働き続けるよりは、パーッと何もかも捨てて、好きにやってみたい気がします。

この年になると、我慢ができなくなってくるのかもしれないですね。なんかもー適当でいいやーって気分。やりたいことをやりたいし、しょうもないことで我慢したくないです。もう散々我慢したもの。うまいものを食べて、面白い仕事だけして生きてみたいなぁ。
2006-10-10 22:08:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-08

# 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観た

岡田斗司夫のプチクリ日記: 「オトナ帝国の逆襲」についてで紹介されていた映画。DVDで借りてきて観たのだけど、すごく面白かった。いままで観た映画の中でも一番面白かったと言っていいぐらい。以下ネタバレありなので要注意。ストーリーをざっと書きますね。

あるとき、しんちゃんたちが暮らす春日部に「20世紀博」がやってきた。そこは、20世紀の街並を再現した家族向けアトラクション施設。20世紀の街並に、20世紀の食べ物、20世紀の流行歌、20世紀の生活を思う存分楽しめる街。大人たちは夢中になり、誰も彼もが20世紀を懐かしみはじめた。ところがある朝、大人たちは急に大人であることをやめてしまった。仕事や家庭を放棄して、20世紀博に行ってしまったのだ。「悪の組織、イエスタデイ・ワンスモアに操られている」。そう勘づいた子供たちは、大人を助けに20世紀博に乗り込み……。といった感じ。

岡田さんは、
  この映画のテーマは「家族の素晴らしさ」「現在の素晴らしさ」ではない。
とネガティブに表現しているけど、ぼくはやっぱり、この映画の趣旨は「家族の素晴らしさ」、「現在の素晴らしさ」ではないかなぁと思った(大きな変化球ではあるものの)。

この映画は、ラストの直前までノスタルジーの素晴らしさを肯定する。それは確かに、現代に疲弊した我々の心を代弁している。「あのころはよかった」というメッセージで見る人を共感させ、現代に何もないと確認する。そのクライマックスが、岡田さんも挙げている、父ひろしが目を覚ますシーンだ。

  夕焼け迫る大阪万博会場、太陽の塔の前。ひろしは幼い姿、しんのすけと同年代の子供として登場する。
 「月の石をみたい!」「あんなただの石、見るために3時間も並べない」「ただの石じゃないもん!アポロが月からとってきた月の石だもん!」
  泣きじゃくるひろしの後ろに、いつのまにかしんのすけが立っている。
 「父ちゃん、迎えに来たよ。お家に帰ろう」
  抑えたセリフが逆に緊張感を盛り上げる。しかしひろしはしんのすけを、「大人になった自分」を認めようとはしない。
  
  靴下の匂いというギャグを交えた仕掛け。幼い頃のひろしから始まって、セリフいっさいなし・モンタージュのみの奇跡の長尺回想シーンの末、ひろしは目を覚ます。

でも、目を覚ましたひろしは泣いている。地面に横たわり、小さな子供のように目を閉じて泣いている。それは、現代に生きることのつらさ、かつて生きた時代の素晴らしさを捨てるつらさが原因だったとぼくは思う。目を覚ましたひろしは、大人としてさっと立ち上がり、しんのすけを抱き上げたりはしない。ただそっと、目をつむり泣いたまま、しんのすけを抱きしめる。そこには、「現代に生きるつらさから目を背けたい、できるならこの子を連れてあの頃に暮らしたい」という思いがあったんじゃないかとぼくは感じた。

科学に夢見ることもできず、国家というものの無力を思い知らされ、国境が失われる恐怖が迫り、何を頼りに、何を目指して生きていけばいいか分からない現代。あのころにはあった夕焼けの街や、あのころにあった温もりは、失なわれてしまった。確かに失われてしまった。あのころのほうが、現代よりも良かったじゃないか。現代には何もないじゃないか。現代に生きる人が感じている気持ち、絶望的な状況に対峙する悲しさを、強い力で突き付ける。ところがである。

「過去のほうがよかった。(しんのすけを過去に連れて行って)過去に生きたい」と願ったひろしは、もう一つの解を、観ている人の前に提示する。それは、観客たちの共感だ。この映画は、現代の空虚さ、失なわれてしまったあのころの温もりを徹底的に提示することで、観客たちに共感をもたらした。その共感は、「あのころの温もり」にほかならない。

この映画がもたらすメッセージで、大人も子供も共感する。現代に生きることのつらさや、苦しさを確認し共有する。その共感、匂いは、あのころ確かにあったものだ。ノスタルジーの世界には救いがある。そこに行きたい。だけど、「救い」は完全に失われたわけじゃない。それは現代にも作り出すことができるんだ。現代でだって、皆がちゃんと共感できるじゃないか。何がつらくて、何がほしいのか、みんなでちゃんと分かりあえるじゃないか。

そういうことを、この映画は提示した。それもちゃんと、ファミリー向け映画という枠組みの中で。そう考えると、ファミリー向け映画というものの芯の太さには感嘆する。それは時間つぶしのためのジャンルではない。子供たちに時代というバトンを渡し、未来を作るものだということを、制作者たちはとてもよく分かっている。この映画の真のテーマは、「現在を作る」ことじゃないかと思う。その問題意識と、感受性の鋭さ、子供を見つめる眼差し、そして現実に迫る迫力とスケールの壮大さ。これが素晴らしいと言わないで何と言おう。本当に、大人も子供も楽しめる映画。とても面白かったです。
2006-10-08 02:49:33 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-06

# 「絶対必要」なもの

インターネットって「絶対必要」? そんなことないよねぇ……? 別にそんなもの、ないならないで別の遊び方があるじゃん。たとえばぼくが江戸時代に生まれてて、インターネットなんかなかったとしても、別の方法でいまと同じだけ毎日を楽しんでいたと思う。みんなもそうでしょ?

なんというか、『インターネットが「絶対必要」』だなんて、与えられたものに依存しすぎな気がする。そんなもの、絶対必要でなんてあるはずがない。たとえば、オープンソースのハッカーたちは、名実ともにインターネットの利用度が最も高い人たちだと思うけど、彼らに聞いて「インターネットは絶対必要」とか言うか? 言わないように思う。

彼らは、「インターネット」がなければ自分で作るはずだ。それは、技術上の制約などから、「インターネット」という名前じゃないかもしれない。だけどきっと、インターネット的なものを彼らは作って、遊ぶと思う。

そもそも彼らが、現在オープンソースのプログラミングで遊んでいるというのは、インターネットを作るという行為と、ある意味論のうえで何の違いもない。オープンソースのハッカーたちが30年前に生まれていたら、きっと彼らはインターネットを作っていただろう。媒体は違うけど、やっていることはどっちもハック。ハックという意味で同じだ。

つまり、相似形をなしている。かつてインターネットを作った人たちは、現在オープンソースのハックをしている人たちと、きっと同じような気持ちで作業していたに違いないから。そしてそれは、オープンソースとか、インターネットとかに限らない。科学技術もそうだろうし、ルネサンスもそうだろうし、未開の地を開拓した人たちもそうだったろう。

「絶対必要」なものなど、本来この世界にはほとんどないんだ。だけど人は、ありもしないレールの上を外れないように歩こうと,毎日キュウキュウする生活に、容易にはまりこむ。つい10年前にはなかったものを、「絶対必要」だと思い込む。「これが絶対必要」だなどと容易に言うならば、それがなかった10年前、あなたの生活はそれほど惨めなものだったのか? 違うでしょう?

「絶対」が軽すぎる。「必要」が軽すぎる。それはつまり、自分が軽すぎるということ。でもそれって、つまらないと思うんだ。軽い絶対、軽い必要、軽い自分は、つまらない。だってそれって、どうでもいいってことでしょう? どうでもいいなんて、つまらないじゃないか。

インターネットが必要って言うけど、そうじゃないよね。もっと本当に必要なものがある。その本当に必要なものが手に入るなら、入手経路がインターネットかどうかなんて、どうでもいい。媒体なんて何だっていいんだ。その先にあるものが大事で、いま手の中にあるものが大事なんだ。どんな媒体でだって、ぼくらはあの目的に向かって突き進む。もっと人は、自分にとって「絶対必要」なものが何か、ちゃんと考えるべきじゃないかな。
2006-10-06 20:29:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-03

# もっとも貴重なリソース

批判しているぼくでさえ、「失敗したらぼくが責任を取ります」と言うことができない。
大きな問題がもう近くに迫っているのに、「いま自分はこっちをやらなきゃいけないから」と
自分に言い聞かせて、些事にかまけてしまう。恐怖から目を逸らしてしまう。
だけど、そんなものに時間をかけても意味がないのだ。やるべきことをやらなければいけない。
そんなこと、ちょっと考えれば誰だって分かる。にもかかわらず、ほとんどの人間は些事にかまけてしまう。
そういうムードになってしまっている。
「やれないからやらない」だって? 馬鹿言うな。やれる。あなたは、やれる。

人間を縛るのは、結局自分自身。自分を騙すのは、自分だ。
コロンブスの卵を発見できる人間というのは、少ない。多くの人が、恐怖を直視できない。
本当は、失敗してもいいから、とにかく何かをやればいいはずなんだ。
でも、失敗を恐れる。いまのままやっていれば、少なくとも失敗はないと思って安心する。

でも、それじゃあ成功もないんだ。待っているのは破滅だけ。それなのに、怖い現実から目を背ける。
それを積極的に乗り越えようという意思を持てない。その結果、ゆでがえるになってしまう。
だからぼくは思うのだ。人間を救うのは、現実を直視する勇気と、現実を見ようとする意思にほかならない。
どれだけ強い力を持っていても、どれだけ賢い頭脳を持っていても、勇気と意思がないならば生き残れない。
勇気と意思こそが、もっとも貴重なリソースなんだ。
2006-10-03 20:27:38 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

# 日々

 
 ・ 2006/10/03(Tue) 00:06:49 レジのとこで、財布から100円玉2つ取り出したつもりが、トレーに載せてみたら 50円玉と 5円玉で、あまりの出鱈目さにびっくりした。

なんか、やたらと可笑しかった。「可笑しい」という字はたぶん生まれて初めて使ったけど、この字がぴったりくる感じ。

それにしても、ricaさんとこみたいに、ちょろっと書いてまたちょろっと仕事に戻れるような、そういうのをうちも欲しいなぁ。
2006-10-03 00:57:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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