メッセージ。 - diary

2006-06-12

# あいかわらず、よしおかさん、かっこいいな

2006-06-12 21:55:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 遅まきながら2006年の抱負を

「何とかなるさ」でいきたいと思います。
2006-06-12 13:12:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-06-11

# 少子化関連で頭の中に思いついた言葉をメモ

- 日本にいる人は、社会というものを憎悪しているんじゃないか。社会というものの存在を窮屈に感じているんじゃないか。
- 表面上は社会に迎合するけれども、一人になる時間を欲しがっているのではないか。
- たとえば女性向けファッション雑誌にはいろいろな(資本主義的)煽り文句が載る。人は表面上それに迎合するけれども、内心は乗せられたくないと思っているのじゃないか。
- 社会から「結婚しろ」と言われても、踏み切れない人が負け犬になっているのじゃないか。
- だから負け犬は、そのことを自嘲しながらも一方でその生き方に誇りさえ持っているのではないか。
- 果たして社会というものが、そこに住む人に「幸福な暮らし」を与えられるのか?
- 社会が「子供を生みなさい」と言ったとして、人間はそれに従うものなんだろうか。
- ある面から見ると、社会というのは必要悪で、人間はそれと戦いながら生きるものじゃないだろうか。
- んー。海外と照らし合わせたりして具体的なことを書きたいけど、書ける力量がない。保留。
2006-06-11 13:01:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日本の少子化の話とか

 
 ・「母」という価値が下がっている。これは「父」もそうだけどとにかく「家族単位」の価値自体がエートスとして低い。ファミリー単位でという変な建前の蔭には、ファミリーへの侮蔑がある気がする。夫婦単位というのが日本では重要でないように。表面的な経済では推奨されていても、実質にはそれらが理想とはなっていない気がするんだが。どうだろうか。
 
 「子供の文化」「若者文化」が最先端であって、家族の文化、夫婦の文化というのは建前にしか存在していないように思える。このあたり、あのラテンの国々の家族や夫婦の在りようとの差はなんだろうと思う。もっとも家族単位が過ぎてバカンスを一族で過ごさねばならない文化は日本人には辛いとも聞く。友人は離婚してしまった。日本人の方が夫婦間も家族間も淡泊なのかも。

あーそう。「日本は母親がしんどいだけじゃなくて、父親もしんどい。日本は人間に対して高い高い社会性を要求する(人間性を否定するほどに)」ということを言いたかったのだけど、うまく言いたいことが言えないのだった。この人はうまく表現してくれてるなぁ。ちょい考え。
2006-06-11 12:35:36 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-06-07

# ささくれた心に

2006-06-07 22:40:09 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-06-06

# 新型レスキューロボット「Hibiscus」

この動画を見てなんとなく、スッパマンみたいで可愛いなぁと思いますた。そう思いません? 千葉工業大学が開発した「Hibiscus」という新型レスキューロボットらしいのだけど。優雅っていうよりはコミカルだよなーって。
2006-06-06 22:25:36 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ここについて

あの〜。どうでもいい些細なことなんですけど。
えーと、ここって、一応、ブログではないような気がします。
いや、ブログだと呼んでいただいて構わないですし、
実際ブログなのかもしれないですけど。

たとえば、ぼくってふじさわじゃないですかぁ。
でも、なんかふじさわじゃない気もするんです。
いや、ふじさわなんですけど……。

でも、自分で「ふじさわであろう!」として
ふじさわになったわけじゃない気がするんです。
生まれたとき、ふじさわだったというか、
周りの人がそう呼ぶだけというか。
もちろん、あるときぼくは、
自分がふじさわであることを受け入れましたけどね。
でも、すべて受け入れたわけじゃないんです。
ぼくは、ふじさわではあるけど、ふじさわではない部分もある。
元々ふじさわではなかったわけで、いまもその部分は残ってる。

それと同じように、ここもブログっぽいけど、
ブログではない気がしてます。
じゃあ何かと言うと難しいですけど……。
でも、「メッセージ。」というのは、
一応近いかなと思ってます。
そう呼んでほしいと思わないというか、
そう呼ばれるとむしろ恥ずかしいんですけどね。
えー、まぁ、一応。
2006-06-06 13:35:47 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「まっさらな紙に一本の線を引く」

 
 試しにあなたの持っているWindowsマシンをじっくりと眺めてみてください。特にノートマシンがいいでしょう。プラスチックの部品の結合部分、スリットがかなりいろんな箇所に見受けられないでしょうか? 悪いマシンによっては、ネジ部分がむき出しになっていたりするかもしれません。また凹凸だらけで、長方形とはとてもじゃないけど言い難い形ではないですか? Macは不必要なデコボコや継ぎ接ぎをなるべく目立たないように工夫されてあります。これがMacが美しく見える最大の要素とも言えるんですね。
 (中略) 
 もちろん、黄金比や素材の使い方のうまさなど、いろいろな要素においてMacのハードウェアデザインは秀逸なものといえます。しかし人間は大前提として簡潔な形を受け入れやすいんですね。正方形やキューブ型が、「スキのない」形としばしば評されるのも、そういうところから来ているわけです。まっさらな紙に一本の線を引くこと。そこから我々デザイナのジレンマは始まるわけです。

ふと思い出して、自分用メモに保存していたURLを蔵出し。Wikiとテンプレートの話に関係するかなと思ったので。ふじさわは「ああそうかなるほどなぁ」と感じました。かっこいいよねぇ。
2006-06-06 10:50:27 / ふじさわ / Comment: 5 / Trackback: 0

2006-06-05

# Wikiの遊び方

たとえば、sbox SandBox/miyuのページだよ

このページって、通りすがりさんが作ったページなんだけどさ(たぶんね)。すごい可愛らしくない? この人は、読み手を意識してるよね。「何もわからないよ」と言いながら、「気をたしかにーっ」って一人ボケツッコミ。でも、誰に対して? この人は、このツッコミをどんな気持ちで書いたんだろう。

あるいは、このツッコミは別の誰かが書いたものなのかもしれない。でもだとしたら、それはそれで想像力をかきたてる。書き手は何を思ったんだろう、miyuさんは読んでくれたかなって。この短いフレーズで、ちゃんとコミュニケーションできている気がするよね。それってなんか楽しい。

結局のところ、人間はみんな、手探りなんだよ。一人ぼっち、この暗闇の泥沼のなかを歩いてる。でも、人間は手を伸ばすことができる。声を発することができる。暗闇にどんな恐しい魔物がいて、どんな怖い目にあうか分からないのに、それでも声を発することを選択するんだ。まるで生まれたばかりの子ガメが海を目指すように。

それがなんか、いいよなぁと思う。声を聞かせてくれてうれしいなと思う。こんな些細なことで喜ぶぼくは馬鹿かもしれないけど、だとしたら馬鹿も悪くない。
2006-06-05 22:46:45 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# Wikiは簡単じゃないけど。

 
 ぶっちゃけ、僕は Wiki というものがあまり好きじゃない。うまく管理しないと、情報がごちゃごちゃした感じになってしまうから。
 それに、文法を覚えるのがめんどくさい。 かなりいろんな方言があるみたいだし。

にゃー。

たしかにWikiは情報がごちゃごちゃになりがちだと思う。それは解決したい問題だ。でも、DocuWikiがそれを解決するかというと、否定的な見解を持たざるを得ない。どんなに優れたツールを使ったとしても、すっきりしたコンテンツを作るのは難しい。ごちゃごちゃしていないコンテンツというのは、本質的に作るのが難しいものなんじゃないかな。(HTMLエディタを見よ)

ブログだって、冷静になって見返してみれば、そこで公開されている情報は十分ごちゃごちゃしていると言える。データが時系列とか、カテゴリに分けられるとか、まぁ機能面でのサポートはあるけど、結論をすぐ知りたい場合は役立たない。意見や結論がまとまってないから。単にWikiよりブログのほうが、読もうと思わせる親しみやすさを持っているだけだ。

結局のところ、ブログにあってWikiにないものは、読もうと思わせる「親しみやすさ」だと思う。また、DocuWikiにあってほかのWikiにないものは、使おうと思わせる「親しみやすさ」だろう。そして、ブログに親しみやすさを付加しているのは、たぶんテンプレート(定型フォーマット)だ。日記という定型フォーマット、プラクティスがあるから、それは読みやすくなる。書き手にとっても受け手にとっても、そこで何がどう語られるべきかがあらかじめ共有されているので安心感がある。

多くのユーザーにとっては、その安心感こそが重要なんだろうと思う。「簡単そう」という言葉がそれを物語っている。安心感は、自由度を下げることで実現される。だからWikiのようにエキセントリックで破壊的、かつ発散的なアプリケーションとは本質的に相性が悪い。まぁ仕方がないのかなぁ。たしかに普通は、無限の自由など与えられても使いこなせない。ユーザーがやりたいのは、あくまでアプリケーションセントリックなことが大半だろうから、無限の自由などは無用の長物ということなのだろう。

……でもね、Wiki、楽しいと思うんだけどな。公園という与えられた遊戯場で遊ぶのもいいけど、街を駆け回って知らない路地裏を見つけるのも楽しい。綺麗な滑り台や高価なおもちゃがなくても、人間って、そこにあるものを使って、想像力で遊べてしまうものじゃん? Wikiにはそういう魅力がある気がするんだよね。
2006-06-05 17:45:03 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0
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