メッセージ。 - diary
2006-05-17
# 考える素材メモ:Webの進化
長尾のブログ2.0: Webの間違った進化
ざっと読んだだけだけど、
ぼくは、長尾さんが深いことを考えているように感じる。
でも、そうじゃない人もいるみたいで、はてなブックマークはちょっと荒れぎみ。
はてなブックマーク - 長尾のブログ2.0: Webの間違った進化
こういうのを見ると、書かれた人(今回のケースでは長尾さん)に一声かけたくなるなぁ。
「ぼくは、あなたは間違ってないと思いますよ」って。
なんていうのかなぁ。はてブのコメント欄って、見てておなかがギューッとなる。
扇情的にすぎるような気がする。
一方的な感じ。2chに似た感じ。
前に書いたときは「劇場性」と表現したけど。
いやだなぁ。はてブ見るのやめようかなぁ。
えっ? MM/Memoがいいんだっけ?
とりあえずそっちを見ることにするか……。
ざっと読んだだけだけど、
ぼくは、長尾さんが深いことを考えているように感じる。
でも、そうじゃない人もいるみたいで、はてなブックマークはちょっと荒れぎみ。
はてなブックマーク - 長尾のブログ2.0: Webの間違った進化
こういうのを見ると、書かれた人(今回のケースでは長尾さん)に一声かけたくなるなぁ。
「ぼくは、あなたは間違ってないと思いますよ」って。
なんていうのかなぁ。はてブのコメント欄って、見てておなかがギューッとなる。
扇情的にすぎるような気がする。
一方的な感じ。2chに似た感じ。
前に書いたときは「劇場性」と表現したけど。
いやだなぁ。はてブ見るのやめようかなぁ。
えっ? MM/Memoがいいんだっけ?
とりあえずそっちを見ることにするか……。
# 仕事のしかたについて1つ2つ
仕事とかで、若い人が上の人に質問するときの話。
技術的なことじゃないけど、まず「本で調べたら分かることを質問するのは失礼」と思ってくれてるのなら、それで十分な気がする。本で勉強する姿勢と、相手を尊重する姿勢があれば、自然に伸びていくし仕事もちゃんとできるようになるはず。そういう人は、いまやってるように、思うとおりやればいいと思う。
あと、自分の経験を踏まえて、試してみたら?と思うのが、口頭で質問しないで書いてみること。質問される側は、忙しく仕事してるときに質問をされると、作業が中断して嫌に感じることもあると思う。それと、若い人も質問しにくいだろうし。お互いのペースを尊重しながら質問・回答できるよう、テキストにしてみるといいんじゃないかなぁ。
そのとき、メールを使うと回答の義務感が出て嫌な感じもするだろうから、たとえばWikiなんかを使ってみるといいんじゃないかと思う。職場の用語集や分からなかった技術ポイントの辞典を作ってみるとか。あのファイルはここにあるとか作業手順のチェックリストとか。で、それの一部を見せて、「時間のあるときに、少しでいいので」と言って上の人に添削してもらう(相手の時間は貴重だから、完璧な答は求めないし必要でもない)。
そうやってドキュメントができていくと、いつか上の人にとっても役立つのじゃないかなぁと思う。あと、次の年に新しい人が入ってきたときにも使えるし、書いて整理することで自分の勉強も進むんじゃないかな。
少し前に思ったのだけど、仕事って自分だけの辞書を作ることに似ている気がする。たとえば、細々としたドキュメントのありか、ルーチンワークや知っておかなければいけない技術、調整が必要な部署や人脈、そういったものと自分との間に、関係を築いておくことで仕事はスムーズに進む。「この問題を解決するには、この情報とこの人」と言えれば一人前なんだろうと思う。つまり辞書なんだよね。
それをドキュメント化しておくというのは、有効な手段なんじゃないかと最近は考えています。自分用辞書というか自分用メモというか。……こんな感じでうまくいかないかなぁ。と、まぁ妄想ですね(笑)。実際はなかなか、思うとおりに行かないかもしれないですけど、というかWikiを用意すること自体が案外面倒だったりしますけど。まぁ、簡単な質問なら、口頭やメールのほうがいいのかな(ぉ。ともあれ試行錯誤ですねー。
技術的なことじゃないけど、まず「本で調べたら分かることを質問するのは失礼」と思ってくれてるのなら、それで十分な気がする。本で勉強する姿勢と、相手を尊重する姿勢があれば、自然に伸びていくし仕事もちゃんとできるようになるはず。そういう人は、いまやってるように、思うとおりやればいいと思う。
あと、自分の経験を踏まえて、試してみたら?と思うのが、口頭で質問しないで書いてみること。質問される側は、忙しく仕事してるときに質問をされると、作業が中断して嫌に感じることもあると思う。それと、若い人も質問しにくいだろうし。お互いのペースを尊重しながら質問・回答できるよう、テキストにしてみるといいんじゃないかなぁ。
そのとき、メールを使うと回答の義務感が出て嫌な感じもするだろうから、たとえばWikiなんかを使ってみるといいんじゃないかと思う。職場の用語集や分からなかった技術ポイントの辞典を作ってみるとか。あのファイルはここにあるとか作業手順のチェックリストとか。で、それの一部を見せて、「時間のあるときに、少しでいいので」と言って上の人に添削してもらう(相手の時間は貴重だから、完璧な答は求めないし必要でもない)。
そうやってドキュメントができていくと、いつか上の人にとっても役立つのじゃないかなぁと思う。あと、次の年に新しい人が入ってきたときにも使えるし、書いて整理することで自分の勉強も進むんじゃないかな。
少し前に思ったのだけど、仕事って自分だけの辞書を作ることに似ている気がする。たとえば、細々としたドキュメントのありか、ルーチンワークや知っておかなければいけない技術、調整が必要な部署や人脈、そういったものと自分との間に、関係を築いておくことで仕事はスムーズに進む。「この問題を解決するには、この情報とこの人」と言えれば一人前なんだろうと思う。つまり辞書なんだよね。
それをドキュメント化しておくというのは、有効な手段なんじゃないかと最近は考えています。自分用辞書というか自分用メモというか。……こんな感じでうまくいかないかなぁ。と、まぁ妄想ですね(笑)。実際はなかなか、思うとおりに行かないかもしれないですけど、というかWikiを用意すること自体が案外面倒だったりしますけど。まぁ、簡単な質問なら、口頭やメールのほうがいいのかな(ぉ。ともあれ試行錯誤ですねー。
# mixiがんがれ! 超がんがれ!
「mixi つながらない」というキーワードで、たまにリファラがあるのですけど(昨日はとくに多かったみたい)。うちにはたぶん、欲しい情報がないのです…(´・_・`)…。ごめんね。
2006-05-16
# ペンを捨て街に出る
技術カンファレンスを指して、男の子のお祭りな感じと表現するかぁ……。そういう風に分かってくれる女の人って、どれくらいいるんだろう。
なんつーのかなぁ、「男は怖い」とか、「男に奪われる」とか、「そんなのはオタクだ」とかそういう視点がないよね。そういう視点って、離れた場所から「怖い怖い」とばかり言ってる感じがする。非モテ話なんかに興じている人もそう。ペンを捨てて、街に出てみたらいいのにと思う。
岩切さんはちゃんと、その場所に行ってその人たちと同じものを見ている。同じ楽しさを感じ、素直に感動している。まるで少女のようじゃないか。そういうのができるって、すごいことだよ。すごくないかなぁ。すごいと思うんだけど。
なんつーのかなぁ、「男は怖い」とか、「男に奪われる」とか、「そんなのはオタクだ」とかそういう視点がないよね。そういう視点って、離れた場所から「怖い怖い」とばかり言ってる感じがする。非モテ話なんかに興じている人もそう。ペンを捨てて、街に出てみたらいいのにと思う。
岩切さんはちゃんと、その場所に行ってその人たちと同じものを見ている。同じ楽しさを感じ、素直に感動している。まるで少女のようじゃないか。そういうのができるって、すごいことだよ。すごくないかなぁ。すごいと思うんだけど。
2006-05-15
# 楽しむことは生きること
「どんな立場でも仕事は全力を尽くすもの」「たとえアルバイトであっても、全員が全力で取り組む職場。私の夢でもあります」
あ。これは好きな考え方だ。思い付くことをメモ。
個人的な意見だけど、人間はどんなときも楽しまなければいけないと思う。いや、人間に限らず、すべての生き物は楽しまなければいけないと思う。たとえば鳥は、空を飛ぶとき何を思うだろう。馬は、全力で大地を駆けるとき何を感じるだろう。あるいは赤ちゃんは、初めて歩けたとき、話せたとき、何かを分かったと思えたとき、どう感じるだろうか。
たぶん、「楽しい」と感じたんじゃないかと想像する。人は鳥を見て、「あの鳥のように、自由に大空を飛びまわりたい」と願うものだ。しかしきっと、鳥は人を見て、「あの人のように、自由に言葉を交わし、世界中を旅し、器用な手先でなにがしかを作ってみたい」と思っているのじゃないだろうか。
要するに、「あの鳥のように、自由に大空を飛びまわりたい」などと願うのはナンセンスということだ。人はすでに、自由に大空を飛びまわっている。それと同じぐらいすばらしいことを、毎日のように成し遂げている。すべての人間がだ。しかし、同時に人間はそのことを忘れている。初めて歩くことができたとき、話すことができたとき、字を書けたとき、何かを分かったと思えたとき、そのときのうれしさを忘れてしまっている。
生きるということ、そのために備わった能力が使えるということは、単純に楽しいことなんじゃないか。それがぼくの仮説。たとえば原始人は、狩猟というものを嫌々やっていただろうか。家で待つ人々は、嫌々子供の服を繕っていただろうか。ぼくにはそうは思えない。楽しんでいたのではないかという気がする。そう。仕事というものは、元来からして楽しいものなんじゃないかと考えている。
仕事というのは、楽しまなければいけない。あるいは、仕事以外のすべて、日常というものは、楽しまなければいけない。それが仏教で言うところの、仏の道であるだろうというのは、非常に納得のできる考え方だ。他人のためでなくたっていいと思う。単に楽しいと思えることを、人間にはしてほしい。嘘偽りのない「楽しさ」というものを追求してほしい。それが「善」であると、ぼくは信じている。
2006-05-13
# 心の病の性善説
素人なので、いい加減なこと言っちゃいけないと思うのだけど、
前から考えていることを書いてみようかな。
ぼくは、心の病というものを、あまり信じていない。
いや、存在を信じていないわけじゃないんだけどね。
悪いものだと思っていないというか。
もしぼくが、心に病を負うことがあるとしたら、
それは体が、ぼくを守ろうとしてくれているからじゃないかと考えている。
たとえば、風邪を引くと熱が出るでしょう?
あれは、熱自体が悪いわけじゃない。
体温を高めて、免疫力を高めようとして熱が出るんだよね。
熱が高いと本人はしんどかったりするけど。
だけど熱は悪くない。体がちゃんと働いているから、熱が出るんだ。
熱が出てしんどいからって、体を責めては可哀想だと思う。
それと同じようにね。
心が病を負ったとしても、心や体を責めるのは可哀想な気がする。
心が病むのなら、悪いのは心や、体じゃない。
むしろ状況が病んでいるだと思う。
病んだ状況で自分が壊れてしまわないよう、
心が何らかの仕事をしてくれてるんじゃないかな。
だからね。そういうときは、病んだ状況から離れて
休むしかないし、休めばいいのだと思う。
心や体は、ちゃんと自分の力で、治そうとしてくれる。
人間にできる一番大事な仕事は、
心や体の話をちゃんと聞いてあげること。
病んだ状況の中で、自分をいじめすぎないことなんじゃないかな。
……まぁ分かったようなことを言う資格は、
ぼくにはないし、何ができるわけでもないけど。
ぼく自身は、そういう風に心や体と付き合ってるなぁと、ふと思ったです。
前から考えていることを書いてみようかな。
ぼくは、心の病というものを、あまり信じていない。
いや、存在を信じていないわけじゃないんだけどね。
悪いものだと思っていないというか。
もしぼくが、心に病を負うことがあるとしたら、
それは体が、ぼくを守ろうとしてくれているからじゃないかと考えている。
たとえば、風邪を引くと熱が出るでしょう?
あれは、熱自体が悪いわけじゃない。
体温を高めて、免疫力を高めようとして熱が出るんだよね。
熱が高いと本人はしんどかったりするけど。
だけど熱は悪くない。体がちゃんと働いているから、熱が出るんだ。
熱が出てしんどいからって、体を責めては可哀想だと思う。
それと同じようにね。
心が病を負ったとしても、心や体を責めるのは可哀想な気がする。
心が病むのなら、悪いのは心や、体じゃない。
むしろ状況が病んでいるだと思う。
病んだ状況で自分が壊れてしまわないよう、
心が何らかの仕事をしてくれてるんじゃないかな。
だからね。そういうときは、病んだ状況から離れて
休むしかないし、休めばいいのだと思う。
心や体は、ちゃんと自分の力で、治そうとしてくれる。
人間にできる一番大事な仕事は、
心や体の話をちゃんと聞いてあげること。
病んだ状況の中で、自分をいじめすぎないことなんじゃないかな。
……まぁ分かったようなことを言う資格は、
ぼくにはないし、何ができるわけでもないけど。
ぼく自身は、そういう風に心や体と付き合ってるなぁと、ふと思ったです。
# ツールの使いこなしとか
エディタの話なんですけど。
なんでかエディタって、「おれのエディタはこれだ」って決めたくなりますよね。
なんでなんでしょ? 決める必要なんてないのにね。
でもまぁ、なぜか「これを使いこなす」ということに憧れてしまう。
「使いこなして最強になるんだ」みたいな感じがあるのかなぁ。
「おれは二刀流」とか、「おれは長尺だ」とか?
たぶんアホなんですよね。(笑)
使いこなすことが、格好いいことだと思っている。
そういう空気が存在する。
「きみはVim使ってるんだ? ふぅん」とか。
「秀丸のこの便利な機能を、ほかのやつは知らん」とか。
そういうネガティブな感じじゃなくても、
目の前のエディタを指して「このエディタは使いやすい」と、
人間は思いがちなんじゃないでしょうか。
実は、告白するとふじさわは、EmacsとVimの両刀遣いです。
自分のことを観察していると、「よし、今日からVimにしよう。
Vimを極めよう」とか定期的に思うようです。
で、Vimにスイッチするのだけど、1年ほどすると飽きてしまうようです。
ほかの人が別のエディタ使ってるのを見てうらやましくなったり、
いまのエディタに、気に食わないところがあったりして、
「もっといいエディタにしたいなぁ」と思っちゃうわけですね。
それでまたエディタをスイッチすることになるんですけど、
ぼくの場合は、EmacsとVimを行ったり来たりしています。
世の中には、ほかにもよいエディタがあるんでしょうけど、
イチから学習するコストがばかにならないですからね。
それに、学習はいつもOJT。
実戦投入しながら覚えたいので、自分にとって
まったく新規のものにはなかなか手が伸びないのです。
というか、手を伸ばさない。
最近では新規のものに手を出さないようにしています。
あるいは、新規のものを使うときはサラッと普通に使います。
使いこなしなんて追求しない。
だって、どんなエディタを使っても、使いこなせずにどうせまた
スイッチしたくなるんだから。
エディタをスイッチしたくなるのには、「目の前の仕事から
現実逃避したい」という心理もあるんじゃないかと思っています。
また、そういう心理になるのも仕方がないことだと。
「このツールを使いこなせれば」という気持ちは否定しない。
でも一方で、「はいはいワロスワロス」という気持ちも持っている。
自分のことを、適当に現実逃避させてあげながら、
目の前の仕事も適当にこなすためにはどうすればいいかが課題です。
ということで、エディタのスイッチなどもしつつ
仕事をしているという状況ですね。
もちろん、エディタだけでなくいろんなツールを、
スイッチしたり作ったりしています。
WindowsもLinuxも、Macも使います。
言語は、比較的固定されているかな。
でも、いろんな言語に日々目移りしちゃいます。
どれもこれも使いこなせてはいないです。
でもまぁ、いっかと思ってます。
そんな感じですねー。
なんでかエディタって、「おれのエディタはこれだ」って決めたくなりますよね。
なんでなんでしょ? 決める必要なんてないのにね。
でもまぁ、なぜか「これを使いこなす」ということに憧れてしまう。
「使いこなして最強になるんだ」みたいな感じがあるのかなぁ。
「おれは二刀流」とか、「おれは長尺だ」とか?
たぶんアホなんですよね。(笑)
使いこなすことが、格好いいことだと思っている。
そういう空気が存在する。
「きみはVim使ってるんだ? ふぅん」とか。
「秀丸のこの便利な機能を、ほかのやつは知らん」とか。
そういうネガティブな感じじゃなくても、
目の前のエディタを指して「このエディタは使いやすい」と、
人間は思いがちなんじゃないでしょうか。
実は、告白するとふじさわは、EmacsとVimの両刀遣いです。
自分のことを観察していると、「よし、今日からVimにしよう。
Vimを極めよう」とか定期的に思うようです。
で、Vimにスイッチするのだけど、1年ほどすると飽きてしまうようです。
ほかの人が別のエディタ使ってるのを見てうらやましくなったり、
いまのエディタに、気に食わないところがあったりして、
「もっといいエディタにしたいなぁ」と思っちゃうわけですね。
それでまたエディタをスイッチすることになるんですけど、
ぼくの場合は、EmacsとVimを行ったり来たりしています。
世の中には、ほかにもよいエディタがあるんでしょうけど、
イチから学習するコストがばかにならないですからね。
それに、学習はいつもOJT。
実戦投入しながら覚えたいので、自分にとって
まったく新規のものにはなかなか手が伸びないのです。
というか、手を伸ばさない。
最近では新規のものに手を出さないようにしています。
あるいは、新規のものを使うときはサラッと普通に使います。
使いこなしなんて追求しない。
だって、どんなエディタを使っても、使いこなせずにどうせまた
スイッチしたくなるんだから。
エディタをスイッチしたくなるのには、「目の前の仕事から
現実逃避したい」という心理もあるんじゃないかと思っています。
また、そういう心理になるのも仕方がないことだと。
「このツールを使いこなせれば」という気持ちは否定しない。
でも一方で、「はいはいワロスワロス」という気持ちも持っている。
自分のことを、適当に現実逃避させてあげながら、
目の前の仕事も適当にこなすためにはどうすればいいかが課題です。
ということで、エディタのスイッチなどもしつつ
仕事をしているという状況ですね。
もちろん、エディタだけでなくいろんなツールを、
スイッチしたり作ったりしています。
WindowsもLinuxも、Macも使います。
言語は、比較的固定されているかな。
でも、いろんな言語に日々目移りしちゃいます。
どれもこれも使いこなせてはいないです。
でもまぁ、いっかと思ってます。
そんな感じですねー。
2006-05-12
# 呪いの言葉はどこから来るか
医療社会学からみたリスク(第9回)[美馬達哉氏]/SAFETY JAPAN
おれカネさんち経由。医療の現場で、間違った常識に基づいた処置が長年行われていたという話。「科学的呪術」という表現は面白いけど、「コロンブスの卵」の一形態だと考えることもできる。人間を襲う、思い込みという魔物。医者という科学の子でさえ、その呪いに強く縛られている。「人狼があなたを騙しているんじゃない。あなたが、あなたを騙しているんだ」。
おれカネさんち経由。医療の現場で、間違った常識に基づいた処置が長年行われていたという話。「科学的呪術」という表現は面白いけど、「コロンブスの卵」の一形態だと考えることもできる。人間を襲う、思い込みという魔物。医者という科学の子でさえ、その呪いに強く縛られている。「人狼があなたを騙しているんじゃない。あなたが、あなたを騙しているんだ」。
# ひまつぶしとか
梱包材のプチプチをつぶして遊ぶというのは、よくやる人がいるけど、
ぼくはやらないなぁ。なんでだろう。(と、手近にあったプチプチを潰してみる)
ありゃ。これ案外つぶれないね。プチッと行くやつもあるけど、
しぶとく粘るやつがけっこう多い。
3つ4つつぶしたけど、こりゃ全部つぶすのは無理だ。あきらめ。
ぼくはどっちかと言えば、日溜まりに寝転んでまどろみたいほうかな。
寝転んで空中に舞うほこりをながめたり、
体が冷えたり温まったりするのを、ただじっと感じていたり。
あと、CDの裏のピカピカを、いつかきっと、
飽きるまで眺めてみたいと思っている。
初めて見たときに、そう思ってから、もうずいぶん経ってしまった。
ぼくはやらないなぁ。なんでだろう。(と、手近にあったプチプチを潰してみる)
ありゃ。これ案外つぶれないね。プチッと行くやつもあるけど、
しぶとく粘るやつがけっこう多い。
3つ4つつぶしたけど、こりゃ全部つぶすのは無理だ。あきらめ。
ぼくはどっちかと言えば、日溜まりに寝転んでまどろみたいほうかな。
寝転んで空中に舞うほこりをながめたり、
体が冷えたり温まったりするのを、ただじっと感じていたり。
あと、CDの裏のピカピカを、いつかきっと、
飽きるまで眺めてみたいと思っている。
初めて見たときに、そう思ってから、もうずいぶん経ってしまった。