メッセージ。 - diary

2006-04-15

# DV被害の実態って、実際どうなの?

 
 驚くべきは被害経験まったくなしって人が、70%以上もいること

みんなが感じることだろうけど、数字が大きいか小さいかという話はあるよね。
ぼくはどうしても自分(男)が悪いと考えがちなので、3割を大きいと言ってしまったけど、よく考えればそんなに大きな数字じゃないとも言える。
一次資料には、10歳代から20歳代に暴行を受けたことがあったという女の人が8.7%。
当然複数の人と付き合っただろうから、それを考えるとすごく小さい数字のような気がする。
2006-04-15 19:50:09 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 『私という病』読了

ふぅ。読み終わった。しんどい本だったなぁ。ちょっと考える……。
2006-04-15 15:24:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 中村うさぎさんの『私という病』を読んでいます

# ネタバレ注意かもしれません。終盤の、かなり後ろのほうを引用しています。

 
 P. 159
 このように己の「主体性」にこだわる人間であるからこそ、男たちから一方的に性的対象として扱われることに対して、怒りや屈辱を感じるのである。それは、無理やり自分が受動的な立場に置かれることだからだ。私の意志を無視し、私の許可も得ずに、私の肉体を性的対象として扱うことは許せない。痴漢やセクハラをされた時、「人間性」を踏みにじられたかのような屈辱を感じるのは、そのためだ。彼らが私の「意志」を無視して扱うからだ。私の体は私のもの。他人が許可もなく触ったり、私の意志を尊重せずに性的行為を強要していいはずがない。その代わり、私が自分の意志に基づいて、「性的対象」となることを選んだのであれば、彼らが私の肉体を性的欲望の処理に利用しても一向に構わない。デリヘルという職業は、そういうことだ。私が自分の意志でこの仕事を選んだのだから、私の肉体は一方的に男たちの性的欲望の器になるのではなく、私の「主体性」の下に彼らの欲望を受け容れるのだ。「デリヘルなんかやる女は、男から欲望の対象にされたいんだから、何をやってもいい」なんて、とんでもない勘違いである。そこに私の意志、私の主体性が存在しているかどうかが、すべての要になっているのだから。

私の、私の、私の……かぁ。

「私」にこだわる力がすごいなぁ。そんなに思うものだろうか。
いい加減な感想を書いてみる。この人は、「私」というものが誰かに奪われ続けていると感じているのじゃないだろうか。「男から奪われている」ということもあるのだろうけど、それ以上に、私の肉体が、つねに誰かの好き勝手にされているとでもいうような感覚があるのじゃないかと想像した。

つまり、女の生理だ。私というものが、何らかの因果によって抑えつけられ、自分の自由や自分自身の所有権が奪われていることを強く感じているのではないか。

だからこそ、彼女はデリヘルを選んだような気がする。自分を奪う何かから、自分を奪い返す、そのための道具として男を利用したと。「何か」に奪われるのなら、男にでもくれてやれ、奪われる前に壊してしまえと。結局どちらにしても、自分の体は奪われたままだろうけど、そうすれば少なくとも、自分の意志は通せる。

自分を奪う何かと戦うために、自分を傷付ける。そうすることで、奪われることを回避し戦いに勝とうとしている、そんなような気がする。この本には男への嫌悪がよく出てくるけど、男に対する憎しみより、もっと強い、肚の底から湧きでてくるような嫌悪感につきまとわれている。そしてこの本には、それとの戦いが綴られているような気がした。

……などと冷静にまとめれば格好いいけど、実際は読むのがつらい本ですね。憎しみの波動が強すぎて。
男として、ぼくが憎まれていることをつらく感じるというのもあるけど、それだけじゃなくてね。
2006-04-15 13:33:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「配偶者からの暴行、女性3割体験」

 
  配偶者から暴行や性的行為の強要などドメスティック・バイオレンス(DV)被害を受けた経験のある女性は3人に1人、さらに1割は「何度も」被害を受けたという実態が14日、内閣府男女共同参画局が発表した「男女間における暴力に関する調査」で明らかになった。

えー? こんなに高い割合なのかぁ……。「男が怖い」という意見を最近よく目にするので、何か書こうと思っていたのだけど、認識が甘かったなぁ。そうなのかぁ……。
2006-04-15 12:43:52 / ふじさわ / Comment: 5 / Trackback: 0

# 読んでみたくなる感じって不思議ですね

Ohno blog(2006-03-27)

ふぅん。この本読んでみたいなぁ。
2006-04-15 12:35:31 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-04-14

# 文章を書くのはぼくも苦手です

うーん。分かるんですけどね。> 作文アレルギークオリティ

ぼくも小学校のときは作文が苦手でした。国語の授業でたまに作文を書かされましたよね。あれが嫌いで嫌いで。原稿用紙を目の前にすると、何も出てこなくなるんですよね。それでただ時間ばかり過ぎていって、「あと10分しかないのにまだ白紙だ!」ってすごく追い詰められて。スラスラ書いちゃう女の子がうらめしかったなぁ……。

だから書きたくないという気持ちも分かります。ぼくだって、いまも苦手意識は抜けないです。心のどこかに「レトリックだけ上手になってもね」みたいな気持ちもあるんですよね。「できない自分もいいじゃないか」と、こう、なんていいうのかなぁ。「それは自分の売りじゃないから」みたいな感じを楽しんでいたりもします。

でもどうせなら、普通ぐらいには書けたほうがいいと思うんですよ。書くことからは、この先も逃がれられないんだし。「これはそういう遊びなんだ」と思って、とにかく何か書いて、とにかく推敲してみるといいかもしれないですね。まぁ、文章力を鍛えるのって手応えを感じられないからしんどいのですけど。
2006-04-14 23:37:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# Gauche 0.8.7のZaurus用パッケージを作りました

「そろそろかな?」と思っていたけどキターーーーー!!!! Gauche 0.8.7

さっそくZaurus用のipkを作ってみましたー。http://nnri.dip.jp/~yf/download/gauche_0.8.7-1_arm.ipk
2006-04-14 15:22:39 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「やる人」と「やらない人」

 
  大人にとっては、「やればできる人」になんて、何の価値もない。問題は「やる人」か「やらない人」か、あるいは、「できる人」か「できない人」か、ただ、それだけのこと。

あ。これはいい言葉ですね。「やればできる人」ってたくさんいますけど、「やる人」は本当に少ない。なぜかというと、失敗するのが怖いからなんです。なにかやると、失敗するリスクがつきまとう。なにもやらなければ失敗はしない。だから「やらない人」は、問題が見えていても手を出さないんです。

で、そうやって「やらない」まま時間ばかり過ぎて、言い訳が増えていく。「○○だったらやるのに」とか、「××する気はあるけど忙しい」とか。「やる人」と「やらない人」のあいだには深い深い谷があって、本当は、「やったけど失敗した人」というのは、「失敗しない人」よりも大きな大きな価値がある。

だから「やる人」というのは毅然としてますよね。そういうことが分かっているから。「○○だったらやるのに」みたいなこと言わず、無言でやってしまう。また、失敗したとしても黙ってそれを受け入れる。それがいかに難しいことか。自戒も込めて、口ばっかりなのは本当に恥ずかしいことです。
2006-04-14 10:54:53 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-04-13

# 名詞化と「の」は少なめでおながいします orz

今日のどーでもいいこと。
文章を苦手に感じている人は結構やっちゃっていると思うのだけど、
文章を書くときに、「名詞を使えば丁寧」という癖はなんとかならないかなぁ。

たとえば「アドレスへのアクセスの禁止の依頼を行います」みたいになって
とても読みづらい。名詞化すると「の」がいっぱいになりすぎるんだよね。
そして、「の」ってどこにかかっているかが分かりにくいから、
できるだけ少なく抑えたほうがいいんですよ。
「アドレスへのアクセス禁止を依頼します」のほうが、断然すっきりするでしょ?

この例のほかにも、名詞化したがる癖は「○○すること」という表現につながることが多い。
「移動することが可能です」とか、「動かすことができます」とか。
それぞれ「移動できます」とか「動かせます」と同義なんだよね。

たしかに日本語では、長いフレーズや名詞が丁寧ではあるけれど、
丁寧さを優先して分かりやすさをスポイルするのはやめたほうがいいと思う。
まぁ、ここを読んでいるような日記ジャンキーは、
文章を読み書きすることに慣れてるだろうから、こんな表現はしないと思うのだけど。
2006-04-13 23:33:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 『ウェブ進化論』についての無責任な感想

ワールドビジネスサテライトはぼくも見ましたけど、あんまり良くなかったですね。梅田さんが、「不特定多数無限大の人間と、ゼロコストをかけあわせるとですね……」とか、はにかみながら言っているのは可愛かったですけど。「可愛い」という印象を与えたのは良くなかったのじゃないかと感じました。

あの番組やビジネスという側面で見れば、「可愛い」というのはネガティブな要素だと思います。「なにこの人は青臭いことを言ってるんだ。それは金になるのか? ならない気がする」という感想を持ってしまいますから。このへんは、番組に限らず『ウェブ進化論』に通底するイメージかもしれません。

「不特定多数無限大とゼロコストをかけて、イコールsomethingになるというのは分かりますよ。そりゃあそうだろう。で、somethingて結局なに?」というのが自然な反応ですよね。「somethingをポジティブに考えていいの? ネガティブに考えていいの?」と。

『ウェブ進化論』ではその根拠をあまり示せていない気がしました。本のあとがきにはこうあります。
 ウェブ進化についての語り口はいろいろあるだろう。でも私は、そこにオプティミズムを貫いてみたかった。これから直面する難題を創造的に解決する力は、オプティミズムを前提とした試行錯誤以外からは生まれ得ないと信ずるからである。

「だからsomethingはポジティブな結果を生み出しますよ」と言っているように聞こえてしまうんですよね。「オプティミズムを貫いてみたかった。だからsomethingをポジティブなものとして扱った」と。そういう青臭さは、ビジネス界に受け入れられにくいような気がします。いろんな意味で青臭いなぁと。まぁ青臭さについては、ぼくが言うなという感じですけど(笑)

ここからは蛇足ですけど(というかここまでも蛇足でしたけど)、青臭さを消すためにはやっぱり実例をもっと挙げたほうがよいのかもしれません。Amazonとかロングテールはよい例ですが、それだけでは少なく感じました。かといって、Googleやはてなでは実感が湧きにくい。なかなか難しいところです。

それと本当に蛇足、しかも梅田さんには責任がない話題です。「チープ革命」というフレーズって、どうなんでしょうか? ぼくは、「うーん」と唸りたくなります。なんかそれこそチープな響きで……。意味深な感じがしないですよね……。意味深が良いことだとは言いませんが、それがどう革命なのか、どこに向かわせる力なのかを想像しにくい気がするんです。「チープ、安い、チープ、安い……」。そうつぶやいたときに、なにか頭に思い浮かぶような、あるいは信じてもよいと思えるような、そんな言葉を使ってほしかったなぁというのが個人的な感覚です。
2006-04-13 12:54:45 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# w3m 0.5.1の、async/改行コードパッチ版Zaurusパッケージを更新しました

少し前に公開した、w3mのcr-async版ですが、読み込むHTMLによってはSegmentation faultするという問題を抱えていました。しばらく原因を探っていたのですが、今日はけさんに不具合のヒントを教えていただき、対策することができました。
古い版をお使いの方は、次のURIにあるw3m_0.5.1-cr-async-2_arm.ipkをお使いくださいー。はけさんどうもありがとうございました。

http://nnri.dip.jp/~yf/download/w3m_0.5.1-cr-async-2_arm.ipk
http://nnri.dip.jp/~yf/download/gc_6.7-1_arm.ipk (←は以前と変わってません)

ちなみに不具合の原因は、オリジナルのCRパッチに若干のバグがあったことです。

追記。オリジナルのCRパッチに問題があったと書きましたが、ふじさわのパッチ当てミスでした。orz。ちなみにCRパッチはhttp://www.sic.med.tohoku.ac.jp/~satodai/w3m-dev/200411.month/4129.htmlでもらったものを使っています。
2006-04-13 00:36:02 / ふじさわ / Comment: 3 / Trackback: 0

2006-04-12

# 裏切りの価値

裏切りについての補足。

たしかにね。
「誰にも期待しない。誰も信頼しない」という人は裏切られることがない。
あるいは、「信頼して裏切られたら、信頼した自分が悪いのだ」と考えるのもうまい手だ。
そうやっている限り、人は傷付くことがない。もっとも冷たい生き方だろう。

だから、そういう生き方をしてほしくないというのは分かる。そうなんだよね。
というか、ここまで考えてもらえるということが、すごく有難いことだと思う。
ありがとう。

そのうえで補足なんだけどね。
そういう意味で「裏切り」という言葉は、本当はあたたかいものであるはずだと
思うんだよね。その言葉をちゃんと使っている限りは。
でもなんか、ちゃんと使われていないケースが多い気がするんだ。
裏切りという言葉や、その事象にいたるまでの過程、自分と相手の人格というものが、
軽く扱われすぎている。

そんな軽い気持ちでつむがれる「裏切り」という言葉は、好きじゃないのです。
ある意味、その軽さこそ、ぼくから見れば……。まぁそういうことですよね。

ちなみに、最近なんかあったとかそういうのじゃないので、大丈夫です。
心配をおかけしたとしたら、ごめんなさい。
2006-04-12 13:41:17 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 人間同士の問題は、「議論」か「許容」で解決できないと思います

 
 この4つのレイヤーというのは、上に行くほど高度です。例えば人間以外の動物は基本的に一番下の暴力か、せいぜい言葉のケンカくらいまでしかできません。

ぼくはそうじゃないと思うな。たとえば猫は、街で見知らぬ猫に会ったら無視しあうというルールを持っている。目が合ったら、それはお互い何らかの関心を持っているという合図。縄張り争いのような喧嘩や、恋に発展するという段階を踏む。

こういうことは、猫だけじゃなくいろんな動物がやっている。サバンナでも、たくさんの動物たちが種族の壁を越えて、1つの池から(仲良く?)水を飲んでいたりする。人間は、高度ではないと思う。少なくともほかの動物と比べて、全然高度じゃないというのがぼくの考え。

それと暴力について。ぼくは暴力を振るわれるのは嫌いだけど、ときには必要なケースもあると思う。つまり、まったくの悪ではないと思う。たとえば殴り合いの喧嘩をすることで、分かりあうこともある。また、喧嘩をして勝ったほうが、その後の関係においても「勝利者」という心理や状態になることは稀だ。

喧嘩というのは、必ずしも勝敗を決めるために行われるのではないように思う。喧嘩をして、勝って、単にうれしいと感じる人はほとんどいないのではないか。喧嘩をするというのは、1つの方法論に過ぎない。暴力が良いとは言わないが、そういう物理的接触には、もっと別の意味や効果や心理のねじれがある気がする。

ジョン・レノンさんはこう言ったそうだ。「言葉というのは、コミュニケーションのスローなやり方だ、音楽はもっといい」。

レノンさんに同意。だけど音楽だけで仕事ができるとは思わない。それは違うやり方だ。違うコミュニケーションのやり方だ。それと同じように、暴力や物理的接触というのも、違うやり方であり、違うメディアだ。1つの物差しでそれを測り、比べることはできないと思う。
2006-04-12 12:29:54 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# Haskellでネットワークプログラミングってできるのだろうか

ところで、Haskellでネットワークプログラミングってできるのだろうか。
できるみたい。あとで読む>自分

ぼくはアプリを書きたいほうなので、使う言語にはネットワークライブラリがあってほしいのです。
OCamlでもまずそのへんを調べたのだけど、Unixに依存したような関数しかないみたいで、ちょっとそれは嫌だった。もっと抽象度の高いライブラリじゃないと、ねぇ。いまさらプラットフォーム依存のプログラムを書きたくないのです。
ということで、Haskellのようなライブラリがあるのはうれしいなぁ。うれしいなぁ。
2006-04-12 02:39:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# Haskell勉強メモ(&脱線して言語機能とシンタックスについて)

Haskell勉強メモ。現在『Haskell入門』のP.43を読み中。静的型付けについて説明されているのだけど、なんとなく納得。Schemeでプログラミングしていても、一番気になるのはある関数が何を引数に受け取って何を返すかだもんね。リファレンスマニュアルを見るときも、真っ先に見るのはそこだ。だからHaskellのように、引数の型が(文法として)明示できるようになっているのは合理的な気がしてきた。(しかも、型付けを省略したときは勝手に型を推論してくれるのも素敵。)

意味は全然違うのだけど、Emacs Lispでは関数を定義するときに「この関数は○○を実行するものだよ」みたいなのを記述することになっている。それに近いような気がした。「プログラミングの習慣として、どうせそのようにしたほうが良いのだから、それを言語の機能に取り込んでしまおう」という感じ?(ref. 文芸的プログラミング) ただ、Emacs Lispのそれは、人間に読ませるためのコメントに過ぎないので、人間と機械の両方に読ませる静的型付けとは少し違う。

人間と機械の両方に読ませるというのは、最近のユーザーインタフェースでは結構主流になってきてるんだよね。たとえばPythonはインデントで関数のブロックを表現しているけど、これなんかは人間と機械の両方に読ませる最たる例だ。「インデントして見やすくしたほうが可読性が高くて良い」→「どうせインデントはするべきなのだし、インデントによってブロックの開始と終端を機械が検出できる」→「それを言語の機能に取り込んでしまえ」ということだろう。

Ruby on Railsで、「Convention Over Configuration」(「設定より規約重要」原則。意訳すると、「アレコレ設定できるソフトウェアは不要。変な運用を行うから細かい設定が必要なわけで、運用規約の筋が通っていてほとんど設定しなくてよいのが理想」という考え方)もその流れだ。総じて最近のユーザーインタフェース(とくにプログラミング言語におけるそれ)は、「視覚的な見やすさ」、「見た目の自然さ」、「書きやすさ」という感覚的な要素を、言語機能に取り込んでいるような気がする。

プログラミングとドキュメントを一緒にしようという考え方は「文芸的プログラミング」と呼ばれるわけだけど、上記のように人間にとってのプログラミングしやすさを言語機能に取り込むような考え方にも名前があるんだろうか。
2006-04-12 02:21:51 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-04-11

# 関西人には哲学が通用しません

うちの親に、ゲーデルのことを話そうとすると、
「ゲー出る? 変な名前やなぁ。うっひっひ」と笑うのです。
この関西人めが。
2006-04-11 13:35:24 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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