メッセージ。 - diary
2019-07-19
# にゃー
自信がないことを悪くいい頭ごなしに否定する人がいるけど、科学的態度としてはむしろ「自分を信じない」ほうが正しいように思う。突き詰めていえば、自分を簡単に信じる人なんて信用できない。議論ができない。真実を追求できない。
ただ、現実的にはこんな議論ができる人ってのは限られていて、「自信を持って言い切らないのは不誠実」などという宗派の人も社会の中には非常に多い。むしろ科学派のほうが圧倒的マイノリティという状況で、しかしエンジニアやデザイナは仕事をしなければならないという恐ろしい世界がここってこと。
それでも地球は回っているという話。かもしれない。
ただ、現実的にはこんな議論ができる人ってのは限られていて、「自信を持って言い切らないのは不誠実」などという宗派の人も社会の中には非常に多い。むしろ科学派のほうが圧倒的マイノリティという状況で、しかしエンジニアやデザイナは仕事をしなければならないという恐ろしい世界がここってこと。
それでも地球は回っているという話。かもしれない。
2019-07-12
# にゃー
ある職種の人に仕事のことをヒアリングする機会があったんだけど、その人は「お客さんから問い合わせが来るのが一番めんどくさい」と言っていた。その後なぜそれがめんどくさいのか具合的に聞いていたんだけど、ふと「でも、お客さんから問い合わせが来て頼りにされたり、問題解決を提供できたりすると、やりがいを感じないんですか?」と尋ねてみた。そしたらその人はちょっと困惑したような感じで「やりがいなんてないですよ」と言っていた。「この仕事にはやりがいなんてない」と言っているように聞こえた。それ以上は追求しなかったけど。「やりがいなんてない世界」ってのが、この宇宙にはあるのかもしれないと感じた。
2019-07-09
# にゃー
HaskellのNetwork.Curlでめっちゃハマった。セッションCookieが保存されたりされなかったりという現象が出て、サーバー側の仕様が正確に分からずブラックボックスという条件なので、どこで何が起こってるのかさっぱり分からん状況。いったんは要件を実装に落とすことそのものを諦めたんだけど、Network.Wreqに切り替えることであっさり解決。Network.Curlに不具合があると思うんだけど、デバッグする時間が取れないんだよなー。とりあえず、今後Network.Curlは使わないようにしよう…。
2019-07-08
# にゃー
「宇宙人は存在するか?」という設問に対して、最近のぼくの考えはこう。まず、「宇宙人」と「存在」の定義が曖昧で、とくに「存在するか」という部分について、正直なところぼくには答えられない。世界が「存在」するか、自分が「存在」するか、あなたが「存在」するか、ぼくには分からない。なにが「存在」し、何が「存在」しないのかも、皆目見当がつかない。それが答え。
そうすると、「いやいや、それはいいんだよ。普通それは当然私もあなたも世界も存在するという前提で話をしてるんだよ」となるだろう。そうした場合、ぼくの答えは「宇宙人は存在する」となる。だって、ぼくやあなたは存在してるんでしょう?ぼくやあなたは、宇宙人だよね?だったら、もう自明だよね。
そうすると、「いやいや、それはいいんだよ。普通それは、『我々以外の天体に生命が存在するか』という議論をしているんだよ」となる。そうした場合のぼくの答えとしては、「我々」がこの「宇宙」に「存在」している以上、それは存在しうるものであり、他の天体に生命が存在するかどうかは確率の問題である。確率の問題であふのであれば、この宇宙は相当広いことであるし、確率はゼロではない。つまり「存在する可能性がある」「存在しないとは断言できない」となる。
あるいは、ぼくらの持っている宇宙のモデルが、実際とは全然違って、本当は宇宙というものが存在しなかったり、存在の仕方が違うのかもしれない。そうした場合は、やはり設問に答えるにあたって、「宇宙」や「宇宙人」、「存在」の定義が合わないことには話が進まないことになると思う。
いずれにせよ、よくある前提に立ったときには、「宇宙人が存在するかしないか」という設問にはあまり意味がないだろう。それともこの質問は、宇宙人に会えると思うか?という問いなんだろうか。
そうすると、「いやいや、それはいいんだよ。普通それは当然私もあなたも世界も存在するという前提で話をしてるんだよ」となるだろう。そうした場合、ぼくの答えは「宇宙人は存在する」となる。だって、ぼくやあなたは存在してるんでしょう?ぼくやあなたは、宇宙人だよね?だったら、もう自明だよね。
そうすると、「いやいや、それはいいんだよ。普通それは、『我々以外の天体に生命が存在するか』という議論をしているんだよ」となる。そうした場合のぼくの答えとしては、「我々」がこの「宇宙」に「存在」している以上、それは存在しうるものであり、他の天体に生命が存在するかどうかは確率の問題である。確率の問題であふのであれば、この宇宙は相当広いことであるし、確率はゼロではない。つまり「存在する可能性がある」「存在しないとは断言できない」となる。
あるいは、ぼくらの持っている宇宙のモデルが、実際とは全然違って、本当は宇宙というものが存在しなかったり、存在の仕方が違うのかもしれない。そうした場合は、やはり設問に答えるにあたって、「宇宙」や「宇宙人」、「存在」の定義が合わないことには話が進まないことになると思う。
いずれにせよ、よくある前提に立ったときには、「宇宙人が存在するかしないか」という設問にはあまり意味がないだろう。それともこの質問は、宇宙人に会えると思うか?という問いなんだろうか。
2019-07-06
# にゃー
日本人の男にとって、ある意味仕事と人生はリンクしている。「いい仕事」ができたということは、「いい人生が送れた」ということと同義である。そういう価値観を持っている部分がある。念のため、ここでいう「いい仕事」とは、「世の中にとって価値のあることを提供した」ということであって、聞こえがいいとか安定した仕事とかそういうことではない。日本人の男は、あるいは「ある世代やある世界の男たち」は、そういう矜持を持っている。
だから彼らにとって、仕事は苦痛ではない。苦しいこともあるが、苦しみがあることを承知のうえで、それを乗り越えて道を進んでいくことを選んでいる。登山のようなものだ。そこに苦しみがあることは分かっている。当然分かっているが、分かっているからこそ、あえてそれに挑んでいく。「苦しくないことをとにかく避ける」というリアクティブな生き方とは、反対の方向に進む。
昔のことは知らないからこういう言い方になるけど、もしかしたら、昔の日本の女たちにも、同じような矜持があったのではないか。彼女たちも「いい仕事」が「いい人生」を意味するような、そんな矜持を持っていたのではないか。そしていまは、それが見えにくくなっていたりするのではないか。
自然や社会と個人がリンクしているような、人生が仕事(自然的、社会的価値)に仮託されているような、そんな生き方が自然だったのではないか。(ここでの「社会」は「国家」を意味しない。不定形でオーバーラップを持つ重層構造からなる社会のどこかを指す。)
だから彼らにとって、仕事は苦痛ではない。苦しいこともあるが、苦しみがあることを承知のうえで、それを乗り越えて道を進んでいくことを選んでいる。登山のようなものだ。そこに苦しみがあることは分かっている。当然分かっているが、分かっているからこそ、あえてそれに挑んでいく。「苦しくないことをとにかく避ける」というリアクティブな生き方とは、反対の方向に進む。
昔のことは知らないからこういう言い方になるけど、もしかしたら、昔の日本の女たちにも、同じような矜持があったのではないか。彼女たちも「いい仕事」が「いい人生」を意味するような、そんな矜持を持っていたのではないか。そしていまは、それが見えにくくなっていたりするのではないか。
自然や社会と個人がリンクしているような、人生が仕事(自然的、社会的価値)に仮託されているような、そんな生き方が自然だったのではないか。(ここでの「社会」は「国家」を意味しない。不定形でオーバーラップを持つ重層構造からなる社会のどこかを指す。)