メッセージ。 - diary

2006-03-03

# モテと見積もり、お返事二題

「高く見積もる人と低く見積もる人。理解と追体験。」にいくつかコメントをいただいたので、お返事してみますー。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=909

 REV 『[非モテ][カリカリモフモフ]モテがうまいことをいうと、「私の勇気を出してくれた!」とモテて、非モテがいうと、「NKHI:何この非現実的な意見」といわれるんじゃないかな。』

たしかに、同じようにうまいことを言ったとしても、受け取られ方が変わってくることは実際にあると思います。じゃあ、結果に差が出るのはなぜか。どこに違いがあるのか。それがモテと非モテの違いなわけですよね。

同じように言ってるのになにかが違う。この「なにか」が知りたい。REVさんのコメントでは、この「なにか」を、5W1Hで言うところのWho、つまり「誰が言っているか」に原因があると考えているのですよね?

でも、そこで諦めてしまわないほうがよいと思うのです。「誰が言ってるか」をたしかに女の人は気にします。それは言い換えれば先入観ですよね? そして、先入観というのは、それまでの経験から生じているわけです。普段から好印象を持つ人から言われたことは、良い方向に受け止めます。逆もまたしかり。

モテか非モテかを分けるのは、普段からそういう印象を与えられるかどうかなんです。たとえば、みんなで居酒屋にいったとして、あまり可愛くない女の子が一人浮いていたとする。そういう子に積極的に話しかける男はモテます。なぜかというと、そういう行動が好印象だからです。フェアで優しい男だという印象を与える。

モテは先天的なものじゃないとぼくは思います。普段の行いも大きいよと。

 monolith 『[考察]能力がある程度ばらついて分布していると,大概の場合は相手を低く/高く見積もる方が正確ということもないかな.状況次第ですが.』

これもそのとおりだと思います。正確さを追求するなら、相手を上か下かで見積もったほうがよいでしょう。でも、場合によっては、正確であることよりももっと大事なことがありますし、いずれにせよ「相手が下である」みたいなことは、たとえ思っても顔に出さないほうがよいと思います。

だって、下扱いされたら不快になるでしょう? どんな場合でも高く見積もる。実際に心の中ではそう思っていなかったとしても、少なくとも「あなたを高く見積もってますよ」というフリはしたほうがよいです。そうしたらコミュニケーションが円滑に進んで、物事が前に進みますから。

ぼくはこれをもう一歩進めて、「どんな場合でも相手を高く見積もっちゃえ」と思っています。だって、「こんなすごい人と遊べて楽しい」と思ったほうがトクじゃないですか。実際に相手がすごい人ならそれでよいですし、あまつさえそんなにすごくない人だったとしても、すごい人だとして接することで、モチベーションを高めてくれるかもしれない。

そうすると、その人の実力が発揮しやすくなるはずです。なんの問題もない。実際、こういう風に接してみると、すごくない人ってそんなにいません。やる気になりさえすれば、なにかしらの力を持っている人が多いと思います。「ウソも言いつづければ本当になる」じゃないですけど、ウソで相手を高く見積もって、それに近い結果が得られたら超トクです。

結局は、何をやりたいかなんですよね。正確でありたいのか、それとももっと違うものが欲しいのか。ぼくはもっと違うものが欲しいと思います。どちらが正しいのかは、分からないんですけど、とにかく関西人はこんな風に考えます。
2006-03-03 23:57:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# バカが征く復活

昨日ぐらいからつながらなくなっちゃってたバカが征く、新しいURLで再開したみたいですね。→バカが征く。なにはともあれおかえりなさい。
2006-03-03 21:30:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「欲望の三角形」

ルネ・ジラールさんの「欲望の三角形」を、より正確に理解してそうな人のテキスト。読み物としても面白いので、あとでじっくり読んでみようっと。# なんかこのサイト、前にも見たことがある気がするけど……。

 
 社会学者であるほうのルネ・ジラールがいっている(らしい)「欲望の三角形」というのは、簡単に言うとこういうことだ(と思う)。人が何らかの対象物を欲するのは、主体が欲望する他者がその対象物を欲するからなのであって、対象物への欲望それ自体は存在しえない。欲望は必ず他者に向けられていて、この主体 - 他者の関係を対象物が媒介している。こうして成立した主体 - 対象(物) - 他者という「欲望の三角形」を介して?人は社会関係を取り結ぶのだ?という理屈。
2006-03-03 15:40:18 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 暴力は暴力を防止するために発生しつづける

 
  「殺さないために命を投げ出すこと、そうすることによって殺しと死との悪循環から抜け出すために、自分の命を投げ出すことをためらってはいけません」。
  むろん自爆テロを勧めているのではない。ジラールは「世の初めから隠されていること」は本質的な暴力というものだということを言いたくて、こんなことを言っていた。
 
  すでにジラールは1972年に記念碑的な『暴力と聖なるもの』を書いて、暴力が民族学あるいは民族心理学の課題に所属すべき問題であること、共同体の維持と成長に不可避なものであること、暴力は暴力を防止するために発生しつづけるものであることなどをつきとめていた。

ふぅむ。たしかにそうだ。人類というのは本質的に暴力的なんだな。暴力から守るために暴力で抗しようとしたら、その恨みが新しい暴力のタネになる。暴力の連鎖がそこにあって、その原因は、人類がもともと持っている暴力性なんだという考え方。何もしない状態では、そこに暴力があるので、努力をして暴力を押さえ込まなくてはいけない。そうしなければ暴力の連鎖を断ち切れないということだ。

正義の名のもとに暴力で抗することは、また新たな暴力を生むので、何も変わることがない。暴力に暴力で抗することは、本当の正義ではない、ということがいえるのかもしれない。あとでまた考えようっと。
2006-03-03 14:17:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 携帯電話とアフォーダンス

東京の電車では、携帯電話を覗き込んでる人が多いなぁと思う。
席に座っている人が、横ならびで全員携帯を目の前に持ち上げているのは異様な雰囲気だ。
その異様さは、ウォークマンを聞いている人を見たときにも感じる。
なんでこんな風に感じるのかは、自分でもよく分からないんだけど。
なんというか、無防備すぎるように感じるのかなぁ。
ウォークマンがはじめて世に出てきたときに思ったのは、「五感の1つを失うことを畏れないのかな?」というようなことだった。
自分だったら、ちょっと怖くてそんなことできない。
外にいるということは、いつ外敵に襲われるか分からないということだ。
原始時代じゃないんだから、襲われるといっても危険な動物が身の周りにいるわけじゃないけど。
でも、悪い人がそのへんを歩いているかもしれないし、車道を外れた車が突っこんでくるかもしれない。
それに、なんと言っても音楽を聞きながらじゃあ、景色を楽しめないじゃないか。
そんなことを思って、いまでもウォークマンの類はあまり好きじゃないのだけど。
同じようなことを、やっぱり電車の中の携帯電話にも感じるんだよなぁ……。
その一方で、電車の中で本を読んでいる人には、あまりそういう感情を抱かないのだけど。
なんでだろうなぁ……。やっぱり自分でもこの感じの原因がよく分からない。

最近は、行き帰りの電車で、いつもザウルスを触っている。
趣味のプログラミングをやっていることがほとんどなのだけど、とても楽しい。
もう元は取ったと胸を張って言えるほどザウルスで遊んでいる。
まぁそれはいいとして。ふとあることに気付いたのだ。
電車の中でザウルスで遊んでいて、目を上げると、隣や前にいる人が携帯電話を睨んでいることが多い。
というか、ぼくがザウルスで遊び始めるのを見て、携帯電話を取り出す人が多いように感じるんだな。
見るともなしに、何をやってるのか覗いてみると、フリーセルみたいなのをやっている。
感覚的なものの見方かもしれないけど、そういう人は、ぼくがザウルスで遊んでいるのを見て、自分もやりたくなったんだと思う。
「退屈だ」と感じたのかもしれないし、「なんか面白そうなもの持ってるな」とうらやましくなったのかもしれない。
あるいは、「自分も何か時間を有効に使わなければ」と感じる人もいるかもしれない。
感じ方はいろいろだろうけど、とにかく人間は、周りの人を見てそれに影響を強く受けるものなんだろうと思う。

フランスの社会学者、ルネ・ジラールという人がこう言ったそうだ。
「欲望とは他者の欲望の模倣である」
たしかになぁと思ったよ。
隣の田中さんが車を買い替えたら、自分も車を欲しくなる。
友達が持っている新しいおもちゃを見て、自分も欲しくなる。
そういう感じは、誰しもが持っているんじゃないだろうか。

まぁこれについても、つらつら考えているのだけど、
1つ思うのは、欲望だけでなく、いろんなことを人間は模倣によって得ているのだろうなということだ。
つまり、人間は別の人間から大きなアフォーダンスを受け取っているんだろうと。
隣にいる人が楽しそうなことをやっていれば、自分もやりたくなる。
「あ、ここでこういうことをやってもいいんだ」と感じたりとか。
そういう模倣のしあいによって、人間の社会というのは成り立っている。
ちょっと前に書いた幸島の猿もきっとそうだ。
ある一匹の猿が、海水で芋を新って食べたらおいしいと発見する。
そうすると、しだいに周りの猿もそれを真似して食べはじめる。
最初の一匹がそれを見つけるまで、たいていは誰も気付かないものなんだ。
それはまさに、コロンブスの卵だろう。

電車の中で携帯で遊ぶ人というのも、周りの人からのアフォーダンスを受け取っている。
でも、だとしたら、ぼくがザウルスで遊んでいて、周りの人はどんなアフォーダンスを受け取るんだろうか。
それで、えーと、っと。仕事だって。とりあえずまとまらないし、ここでえぃっ。送信。
2006-03-03 14:16:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# タイマグラばあちゃん

タイマグラばあちゃん

岩手の秘境タイマグラ。NHKのディレクターだった人が、タイマグラの取材をきっかけにばあちゃんを好きになり、会社を退職して村に移り住んで、15年かけて作ったという映画。観てみたいなぁ。どうすれば観れるんだろう。

関連ページ:
ハコフグマン: TVからはじき出される個性
Amazon.co.jp:タイマグラ通信—映画『タイマグラばあちゃん』制作ノートハヤチネ叢書: 本
2006-03-03 04:27:29 / ふじさわ / Comment: 5 / Trackback: 0

2006-03-02

#

なんでこんな小難しいこと書いたんだ?
2006-03-02 20:54:32 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 高く見積もる人と低く見積もる人。理解と追体験。

ああ、つかれた。つかれているので、見たもの、聞いたものにそのまま反応し、感じたことを即座に書いてみます。まだ最後まで読んでいないのだけど、興味深かったので。

 
 他人に相談をして、
 
 「そんなのはこうやって解決しろよ」
 
 と言われたときにしばしば私は、
 
 「ええ〜、そんな誰でも思いつくようなまっとうで正当な解決法を提案するなんて、どういうこと? 残念ながらソレはもう思いついたし試したけど、どうしようもなかったんだよなあ」
 
 などと思ってしまいます。
 
 「それなのにそういう提案をするってことは、このひとはあたしをまれにみる馬鹿だと思っているんだな……そこまで自分を見下している人間と交流する意味ってなんだろう」
 
 と悲観的になってしまいます。

世の中には2種類の人間がいる。基本的に誰かのことを低く見積もる人と、高く見積もる人だ。

低く見積もる人は、何を聞いても自分の理解の範疇で考える。何かを相談されても、自分が正解を知っているつもりになっている。だからありきたりな正論をぶつ。相手が自分の思いも付かないことで悩んでいたり、自分と同じ悩みをかかえていたりするとは想像しない。しかしこれでは、いつまでたっても問題が解決しないし、成長しない。

もう一方の高く見積もる人は、自分の理解の範疇とほぼ同等か、その外を探そうとする。自分の理解と同等の範疇で探すときは、「そうだよね。そういうときもあるよね」という言葉が出る。理解の外を探すときには、「こうしてみたらはどう?」という言葉が出る。そこには共感があり、前へ踏み出す一歩がある。

解を探すには、自分の理解の範疇を飛び出して、相手の理解の範疇にシンクロを試みる必要があると思う。なぜなら理解とは、範疇を少し広げることだから。相手の範疇を広げることは、自分の範疇とシンクロさせることで可能になる。またそれは、自分の範疇を広げることにもなる。共感、肯定、問題共有などを伴う。言い換えれば追体験だ。

男女の間でこのような追体験を行うのは、そう難しいことではない。でも、それがうまくできない人を案外たくさん見かける。個人的には、そういう人は自分の親とちゃんとしゃべったことがないんじゃないかと思う。

たとえば男なら、自分の母親の悩みを聞いたり、今日の献立を考えるのを手伝ったりしているか? 女なら、たまにでも父親と一緒に出かけることがあるか? たったこれだけの違いだけで、モテるかモテないかに雲泥の差が出てくる。
2006-03-02 14:38:51 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

2006-03-01

# ぼくも四分反フンフンしたい。

2006-03-01 21:59:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ぼくらがここにいる理由

「サブカルチャーとは何か?」で書いたことは、この間のWiki小話/Vol.6で感じたことの延長線上で考えたことでもある、というお話。Wiki小話/Vol.6でぼくは、「尖ったWikiはどこにいる」というタイトルで話した。趣旨は、「Wiki開発者は楽しんで作っている。その楽しみのエネルギーこそが『尖った』ものを作るものじゃないか」というものだった。

日本のWiki屋さんの中には、個人的な楽しみでそれを作っている人が多い。裏を返せば、便利な機能とか、ユーザーの利便性を高める機能とかを地道に作りこんでいる人はけっこう少ないということだ。一方で海外を見ると、多機能であることや高度なアプリケーションの互換性を重要視する一派がいるらしい(詳しくは塚本さんの発表資料などを参照してください)。なんでかなぁと思ったわけですよね。

ぼくは日本のWikiの状況を「悪く言えばユーザー不在だ」とも言った。この言葉に同意してくれた人もいたみたいだけど、ぼく自身はこれはリップサービスというか、「そういう面もあるよね」ぐらいの感覚で、真剣に悩んだりしていない。以前、「Wikiが流行らない理由」という話題で盛り上がったときのように、流行っていないことをけっこう楽しんでいたりもする。でも、なんでだと。

Wiki小話/Vol.6の感想で書いたように、なんとなくWikiって、漫画やアニメの状況とイメージがかぶるところがある。ちゃんとした界隈からは放っておかれているという感じ。そして中にいる人たちも、放っておかれていることを心地良く感じている気がする。漫画/アニメもWikiも、必要以上に多くのユーザーを欲しがっていない。好きな人はどうぞみたいな。

それで、中の人たちは「うおー。萌えー」とかいって楽しんでるんだけど、外にいる人たちからは「ナンダアイツラ」みたいな感じで蔑まれてたりして。そういうところが、日本的なのかなという気がする。ハイカルチャーとは対置され、地位が低いと見なされているけど、純粋に自分たちの好きなものを作ることが許される場がそこにあると。

無意識のうちにぼくらは、「ハイカルチャーに分け入って、社会的に認められてしまうと窮屈だ」と感じている。建前の世界では遊べないことを何となく察知している。オタク文化と恋愛資本主義の対立なんかも、同じ構図なんじゃないかなぁ。創造的な遊びは、やっぱりサブの文化の中にいないと味わえない。恋愛というのはなにやらうらやましく感じるけど、そこに創造の楽しみは感じられない。だからぼくらはここにいる。
2006-03-01 04:15:41 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 人によって見えるものが違うという話

なんだろう……。何か言葉をつぶやいたとき、それをボヤキと受け取る人もいれば、「楽しそうにやってるな」と感じる人もいる。その感じ方はもう、世界観の違いであり哲学の違いなんじゃないかな。言葉をつぶやいた人と、聞いた人が反対の感じ方をするのなら、それはけっこうしんどいことだ。楽しんで書いた文章を読んでガッカリされたら、そりゃあちょっと慌てちゃうよね。
2006-03-01 03:17:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-02-28

# サブカルチャーとは何か?

サブカルチャーとは、若い人による新しい文化であり、新しいがゆえに一段低く見られる。既存の文化に親しんだ人(その時代の大人、既得権者)からすれば、その新しい何かは異物である。自分たちの文化と違うものだから、気持ちが悪い。ちゃんと接してみれば、たとえば漫画もアニメも楽しめるだろうけど、それを一段下に置きたくなる。既得権者たちはそれを、「文化」の外に置こうとする。

「サブカルチャー」は、サブの名を冠しながらも実質的にその時代を支配する。そして時間がたち、若い人たちが年老いて既得権層になれば、サブカルチャーは「文化」に組み入れられる。そのころには、漫画やアニメといった既存のサブカルチャーとはまた別の、新しいサブカルチャーが生まれる。

インターネットもまた、サブカルチャーである。それはカルチャー/文化(ハイカルチャー)の外に置かれ、一段低いものとして扱われる。しかし実質は、ゆっくりと、しかし確実にその時代を支配してゆく。

アメリカというのは特殊な国で、サブカルチャーを容易にハイカルチャーに組み込もうとする力があるのかもしれない。beatlesは世界の音楽ビジネスを塗り替え、ハリウッドは映像エンターテイメントのスタンダードになった。しかし冷静に見れば、それは子供向けエンターテイメント以外の何者でもない。

もしそれらが日本で生まれていたなら、きっと「サブカルチャー」と呼ばれていただろう。日本という国は、サブカルチャーを「サブ」のまま内包する力学を持っている。たぶん、ほかの歴史ある国々もそうだろう。
2006-02-28 13:05:27 / ふじさわ / Comment: 3 / Trackback: 0

2006-02-27

# インターネットで何が変わるか

 
 文章を書く、写真を撮る、語り・対話・議論を録音する(中略)そして、その結果を皆がインターネット上に置く。ではそれで何が置こるのか。(中略)バブル崩壊と共に終了した第一次インターネット・ブーム時の結論は「何も起こらない」だった。(中略)そこに圧倒的な技術革新が起きたために、局面は一気に動いた。「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている。

最後のところ、そうかね? なんとなくぼくは、そう思わないなぁ。必要とする人に、必要とするものを届けるのは難しい。グーグルがいくら優れていたって、人が検索キーワードを入力しなければ、必要とするものを届けることができない。 「求めよ、さらば与えられん」、これは事実かもしれない。しかし、基本的に人は求めない。自分が何を必要としているかすら、理解している人は多くない。「面白いもの」で検索しても、面白いものは見つからない。馬を川へ連れていっても、水を飲ませることはできない。もし何かを使えば水を飲ませられるとしても、その「何か」が「グーグル」であるかどうかは、もっとよく考えないと分からない。
2006-02-27 21:59:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 芋を海につけて食べる

 
 ある概念にいったん名前がついて、カテゴリ化が定着してしまうと、そのカテゴリを越える発想はそうめったに出てこない。

なんとなく考えているところが似ているように感じた。この人は「名前が付いてしまうと」という前提で考えているけど、さらに一歩進めることができると思う。つまり、名前を付けなくても、なんらかのアフォーダンスを一度そこから得てしまうと、人間はそれを覆す行動を取れなくなるんじゃないだろうか。

これをひとことで言えば、コロンブスの卵になる。机の上で卵を立てろと言われても、多くの人にとってはどうしたらよいか分からない。卵や机に固定したアフォーダンス(固定観念)を持ってしまっているし、「あまつさえ卵を割ったら?」と思い付いたとしても、「でもそんなのインチキだと言われたらどうしよう」と臆病になってしまう。

幸島の猿が芋を海水で洗って食べるようになったが、これが世界的に珍しい事件だったのも同じことだ。目の前に海と芋があったとしても、それを組み合わせて考えることは難しい。日本人は海老やイカを食べるけれど、海に面していない国の人にそれを食べさせるのは難しいだろう。何が言いたいのか。つまり、当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではないということだ。

食べられるように見えるそれは、ある人にとっては食べられない。また、あなたが食べられないと思っているそれは、本当は食べられるのかもしれない。「食べられない」と思うから食べられないのであって、「食べられる」と思えば食べられる。そういう領域が、実はこの世界にはたくさんある。だけどその領域に踏み込むのは難しい。海に芋をつけて食べる、ただそれだけのことが、すごく難しい。

ぼくは知りたい。どうしたらそのとき、人はコロンブスになれるのかを。どうしたらそのとき、コロンブスの功績を素直に認めてあげられるかを。
2006-02-27 20:27:48 / 芋を海につけて食べる / Comment: 0 / Trackback: 0
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