メッセージ。 - diary
2006-02-26
# インフラとアフォーダンス、相対化の話
横浜駅で東京行きのプラットフォームに立つ。
現在14時10分。東京行きの電車は、14時20分発の特急と、14時25分発の普通電車か……。
ぼくは慣れてるからいいけど、分かりにくいなと思った。
こういうシチュエーションで、14時20分発の特急に乗る人はいない。
その後の普通電車と比べて、たいして早く着くわけじゃないし、特急料金を余分に払わなくてはいけないから。
この特急列車が横浜に止まるのは、ほとんど降りる人のためだ。
小田原や伊豆や、もっと向こうから来て、横浜で降りる人。そういう人からすれば、特急電車が横浜で止まるのは自然なこと。だけど、横浜から電車に乗って、東京に行こうとする人からすれば、この電車は分かりにくい。
駅のアナウンスも掲示も、普段から横浜近辺に住んでいる人向けで、「普通電車」とか「特急」とか、「発車時間が5分違う」とか、<知らない人>には役に立たない。たぶんその人たちが知りたいのは、どっちの電車がどれくらい早く着いて、切符の値段がどれくらい違うかだ。
ユーザインタフェースの面からすれば、どうすればいいのかなぁ、と。「特急」とか「発車時間が5分違う」とかをやめて、「500円の運賃が上乗せして必要」とか、「東京への到着時間が5分速い」などとすれば、どうなるだろう。プログラマの感覚で言えば、これは、インフラの都合を情報として見せるのではなく、ユーザーが直接使える情報に変換して提供する抽象化といえるが。えーと、ごにょごにょ。
……ということを、ふと思った。
ところで、ちょっと脱線して、前に書いたエントリとも関係する話。子供のころからずっと疑問に思ってるのだけど、「特急」はどこが「特急」なのか? 「急行」と「準急」、「特急」の関係は? たまに「快速」や、「快速特急」などという電車も見かける。言葉や概念が陳腐化し、相対化する例がここでも見られる。
現在14時10分。東京行きの電車は、14時20分発の特急と、14時25分発の普通電車か……。
ぼくは慣れてるからいいけど、分かりにくいなと思った。
こういうシチュエーションで、14時20分発の特急に乗る人はいない。
その後の普通電車と比べて、たいして早く着くわけじゃないし、特急料金を余分に払わなくてはいけないから。
この特急列車が横浜に止まるのは、ほとんど降りる人のためだ。
小田原や伊豆や、もっと向こうから来て、横浜で降りる人。そういう人からすれば、特急電車が横浜で止まるのは自然なこと。だけど、横浜から電車に乗って、東京に行こうとする人からすれば、この電車は分かりにくい。
駅のアナウンスも掲示も、普段から横浜近辺に住んでいる人向けで、「普通電車」とか「特急」とか、「発車時間が5分違う」とか、<知らない人>には役に立たない。たぶんその人たちが知りたいのは、どっちの電車がどれくらい早く着いて、切符の値段がどれくらい違うかだ。
ユーザインタフェースの面からすれば、どうすればいいのかなぁ、と。「特急」とか「発車時間が5分違う」とかをやめて、「500円の運賃が上乗せして必要」とか、「東京への到着時間が5分速い」などとすれば、どうなるだろう。プログラマの感覚で言えば、これは、インフラの都合を情報として見せるのではなく、ユーザーが直接使える情報に変換して提供する抽象化といえるが。えーと、ごにょごにょ。
……ということを、ふと思った。
ところで、ちょっと脱線して、前に書いたエントリとも関係する話。子供のころからずっと疑問に思ってるのだけど、「特急」はどこが「特急」なのか? 「急行」と「準急」、「特急」の関係は? たまに「快速」や、「快速特急」などという電車も見かける。言葉や概念が陳腐化し、相対化する例がここでも見られる。
2006-02-24
# 相対化されていく(社会的)価値
「自分の本音を相手にぶつけるなどということは裸で街を歩いているような恥ずかしい行いだ」、ということになるらしい。むしろ、その場その場の空気に自分を順応させ、相手を楽しませたり場を盛り上げたりすることが能力の証明であり、かっこいいことなのだ、と彼は言い切った
これは興味深い洞察だなぁ。最近感じるのだけど、世の中のイベント事や習慣が、それそのものの意味をまったく欠いてしまっているような気がする。たとえばバレンタインデーのことを、「女の子が好きな男の子にチョコレートを渡して愛を告白できる日」だなんてとらえている人がいるだろうか? 小さな子供でさえ「歴史的にはそうである」みたいな認識をしているような気がする。
つまり、そういう事象を真正面から捉えることができなくなっているんだ。無理にそういうことをすると、嘘臭くなってしまう。結果として、バレンタインデーで言えばチョコレート以外の何かを付けて本気であることを表現するとかしなければならなくなる。よくあるあれだ。「ディズニーランドに一緒に行ったカップルは別れる」みたいな。最初は「仲の良い二人が一緒にディズニーランドに行って、より仲が深まる」というジンクスだったのが、時間がたつことで陳腐化し、逆の意味でとらえるほうが本当っぽく見える(あるいはどちらも無価値に感じられる)という。
こういうのは、習慣ごとに限らずいろんなところで起きているはずだ。結婚とか、仕事とか、家庭とか。クレヨンしんちゃんなんかが指摘しているのもまさしくその点で、社会的価値観というものの相対化が急速に進んでいるのだろう。ホリエモン事件もそういう文脈でとらえることができるし、たぶんほかのいろんなこともそうだ。で、問題はなぜそういうことが起きるのか、なにかすべきことはあるかだけど……。
2006-02-23
# カナウィキ祭りがはじまるよ?
カナウィキ祭りの現場(?)。ふはは。面白いなぁ。とりあえずネタとして、Gaucheで実装してみようかなぁ。
個人的には、それほどカナウィキに情熱を持っていないのだけど、名前とURLがすっきり対応しているのは魅力的に感じる。Wikiで本を作る作業では、メールベースでWikiページにURLを連絡していたので、長いURLは抵抗を感じていたのです(メールでは長い行が折り返されるので)。
個人的には、それほどカナウィキに情熱を持っていないのだけど、名前とURLがすっきり対応しているのは魅力的に感じる。Wikiで本を作る作業では、メールベースでWikiページにURLを連絡していたので、長いURLは抵抗を感じていたのです(メールでは長い行が折り返されるので)。
# Wikiで本を作る
仕事関係で、「書籍を作ろう」という話があって、何人かで作業をしている。これまでもこういう作業は経験していたのだけど、書籍のようにボリュームが大きいのは初めて。
ファイル1つに収まるぐらいの原稿なら、メールベースで作業をしても問題がなかったけど、今回はちょっと大物ということで、原稿管理にWikiを使うことを提案し、実際に使ってもらった。で、1か月ぐらい運用してみて、「Wikiは編集には使いにくい」という言葉をいただいてしまった。ぎゃふん。
ここで言う「編集」とは、テキストのeditではなくて、編集作業全般を指しているものだと思われる。ちゃんとヒアリングしたわけじゃないけど多分。まぁとりあえず、そういうものとして考える。「どうして、Wikiは使いにくいと思われたんだろう?」
こういう作業でWikiを使う場合、ぼくが考えるメリットは3つある。
1つは、パーマリンクだ。Wikiを使っていれば、「どの文章のどこそこ」をURLという一意のキーで共有できる。Wiki実装によっては、バージョン番号もURLに含められるので、お互いが違うバージョンを見ていたということもない。文書が育っていくのを作業者で共有しやすい。
2つ目は、差分の表示機能。世の中には、プログラマ向けのバージョン管理システムがたくさんあるけど、普通の文章を管理するには使いにくいような気がしている。中でも一番気になるのが差分の表示機能で、行単位で差分を見せられてもぼくなんかの貧弱な脳では受け付けてくれない。もっと色付けしたり、見やすく扱いやすい形になっていてほしい。ぼくがターミナルエミュレータ+diffという貧弱な環境を使ってるからかもしれないけど。
3つ目は、くだらないことだけど文書フォーマット。たとえば表組みを含む文書をみんなで共有するにはどうすればいいか。 Excelを使うのか、Wordなのか、それともTeXか、ファイル名はどうするのか、組版用としてデザイナーさんに渡すときは、別途フォーマットが決まっている。うーんうーん。こういう問題を解決するのに、Wikiは適しているような気がする。
Wiki記法なら(TexやWordに比べれば)比較的誰でも使えるし、どの程度の作業にどの程度コストがかかるかとか、お互いにコミュニケーションしやすいように思う。CVSとかでの管理では、相手がどういうことを気にして、どういう作業をしたがっているのか分からなさすぎる。メールでのコミュニケーションはオーバーヘッドが大きすぎる。
まぁなんか、そういうことを考えていたんだけどなぁ。
ファイル1つに収まるぐらいの原稿なら、メールベースで作業をしても問題がなかったけど、今回はちょっと大物ということで、原稿管理にWikiを使うことを提案し、実際に使ってもらった。で、1か月ぐらい運用してみて、「Wikiは編集には使いにくい」という言葉をいただいてしまった。ぎゃふん。
ここで言う「編集」とは、テキストのeditではなくて、編集作業全般を指しているものだと思われる。ちゃんとヒアリングしたわけじゃないけど多分。まぁとりあえず、そういうものとして考える。「どうして、Wikiは使いにくいと思われたんだろう?」
こういう作業でWikiを使う場合、ぼくが考えるメリットは3つある。
1つは、パーマリンクだ。Wikiを使っていれば、「どの文章のどこそこ」をURLという一意のキーで共有できる。Wiki実装によっては、バージョン番号もURLに含められるので、お互いが違うバージョンを見ていたということもない。文書が育っていくのを作業者で共有しやすい。
2つ目は、差分の表示機能。世の中には、プログラマ向けのバージョン管理システムがたくさんあるけど、普通の文章を管理するには使いにくいような気がしている。中でも一番気になるのが差分の表示機能で、行単位で差分を見せられてもぼくなんかの貧弱な脳では受け付けてくれない。もっと色付けしたり、見やすく扱いやすい形になっていてほしい。ぼくがターミナルエミュレータ+diffという貧弱な環境を使ってるからかもしれないけど。
3つ目は、くだらないことだけど文書フォーマット。たとえば表組みを含む文書をみんなで共有するにはどうすればいいか。 Excelを使うのか、Wordなのか、それともTeXか、ファイル名はどうするのか、組版用としてデザイナーさんに渡すときは、別途フォーマットが決まっている。うーんうーん。こういう問題を解決するのに、Wikiは適しているような気がする。
Wiki記法なら(TexやWordに比べれば)比較的誰でも使えるし、どの程度の作業にどの程度コストがかかるかとか、お互いにコミュニケーションしやすいように思う。CVSとかでの管理では、相手がどういうことを気にして、どういう作業をしたがっているのか分からなさすぎる。メールでのコミュニケーションはオーバーヘッドが大きすぎる。
まぁなんか、そういうことを考えていたんだけどなぁ。