メッセージ。 - diary
2006-02-21
# Wiki小話/Vol.6に行ってきました
Wiki小話/Vol.6に行ってきました。
ライトニングトークでしゃべらせてもらったので、そのときに使った資料を置いておきます。
尖ったWikiはどこにいる
‐わたしにとっての「尖ったWiki」。
YASWiki2実験室 ふじさわ
「尖った機能?」
「たとえばパラグラフ指向かな。」
●HashedWiki
→パラグラフ単位で編集可能
●WalWiki
→見出し(セクション)単位で編集可能
→でもなんのため?
→保留!
●とりあえず現状
従来のWikiはコミュニケーション指向になりがち。
→リストをネストして議論
→リストをネストして情報のカテゴライズ
→議論が発散しがち
→収束の機能が欲しい
●YukiWiki AsO改
→ページ自体がコメントの集まり
→どんどん追記。1行で意味が完結している。
→随想のような
→掲示板のような
→ときに議論も
→展開した話題を収束する「階層構造」
→発散と収束、緊張と弛緩。それらを受け止める器としてのWiki?
●YASWiki2の場合
→見出しを作るかわりにページ(章)を作る
→ページ(章)は複数のページ(章)を持つことができる
→すべてのページ(章)が名前を持つ
→すべてのページ(章)がパーマリンクを持つ
→すべてのページ(章)がRecentChangesを持つ
→すべてのページ(章)がRSSを出力
→すべてのページ(章)で検索できる
→すべ(ry
→検索結果もRSSを出力
●やってみたら
→マインドマップのような雰囲気(ある意味成功)
→階層が深くなり杉
→人間が読むページじゃない(読むんじゃない。感じるんだ!)
→こんなのWikiじゃない!
→ほかにもこんなWikiがあるはず!
→wemaとかそうなんじゃないの!?
●なぜパラグラフ/階層指向?
→いまどこにいるか知りたい(俯瞰したい)
→すべてがフラットって、なんか気持ち悪くない?
→なにか整理する仕組み
→とにかく構造をコントロールしたい
●Momoka
→階層をやめてみた
→変わりにタグを導入(階層が浅く、緩いつながりになるように)
→そもそもMomokaって?
→Message Oriented Meta Object with Kaleidoscopic A...
→メッセージ指向のメタななにか。
→万華鏡のようにページ群を見る……
まぁそれはいいとして。
パラグラフ指向って、なんなんでしょうね?
まぁそれもいいとして。
本題。「尖ったWikiはどこにいる?」
尖ったWikiは、
「こんなのWikiじゃない!」と言われるようなもの?
なのかもしれない……。
# はてなとか?
# CheckPadとか?
# Wemaとか?
Wiki開発はけっこう楽しい……。
裏をかえせば
良くも悪くも、日本のWiki開発者はそれで遊ぶことを目的にしているかもしれない。
開発リソースの不足。
ユーザーも不足。
テコになるようなツールを作りがちかもしれない。
悪く言えばユーザー不在。
理解してもらえない感。
作ってそれを誰に見せるのか。
作ってそれを誰が使うのか。
ユーザーとの距離が遠いのかもしれない。
とかなんとか。
おしまい。
ライトニングトークでしゃべらせてもらったので、そのときに使った資料を置いておきます。
尖ったWikiはどこにいる
‐わたしにとっての「尖ったWiki」。
YASWiki2実験室 ふじさわ
「尖った機能?」
「たとえばパラグラフ指向かな。」
●HashedWiki
→パラグラフ単位で編集可能
●WalWiki
→見出し(セクション)単位で編集可能
→でもなんのため?
→保留!
●とりあえず現状
従来のWikiはコミュニケーション指向になりがち。
→リストをネストして議論
→リストをネストして情報のカテゴライズ
→議論が発散しがち
→収束の機能が欲しい
●YukiWiki AsO改
→ページ自体がコメントの集まり
→どんどん追記。1行で意味が完結している。
→随想のような
→掲示板のような
→ときに議論も
→展開した話題を収束する「階層構造」
→発散と収束、緊張と弛緩。それらを受け止める器としてのWiki?
●YASWiki2の場合
→見出しを作るかわりにページ(章)を作る
→ページ(章)は複数のページ(章)を持つことができる
→すべてのページ(章)が名前を持つ
→すべてのページ(章)がパーマリンクを持つ
→すべてのページ(章)がRecentChangesを持つ
→すべてのページ(章)がRSSを出力
→すべてのページ(章)で検索できる
→すべ(ry
→検索結果もRSSを出力
●やってみたら
→マインドマップのような雰囲気(ある意味成功)
→階層が深くなり杉
→人間が読むページじゃない(読むんじゃない。感じるんだ!)
→こんなのWikiじゃない!
→ほかにもこんなWikiがあるはず!
→wemaとかそうなんじゃないの!?
●なぜパラグラフ/階層指向?
→いまどこにいるか知りたい(俯瞰したい)
→すべてがフラットって、なんか気持ち悪くない?
→なにか整理する仕組み
→とにかく構造をコントロールしたい
●Momoka
→階層をやめてみた
→変わりにタグを導入(階層が浅く、緩いつながりになるように)
→そもそもMomokaって?
→Message Oriented Meta Object with Kaleidoscopic A...
→メッセージ指向のメタななにか。
→万華鏡のようにページ群を見る……
まぁそれはいいとして。
パラグラフ指向って、なんなんでしょうね?
まぁそれもいいとして。
本題。「尖ったWikiはどこにいる?」
尖ったWikiは、
「こんなのWikiじゃない!」と言われるようなもの?
なのかもしれない……。
# はてなとか?
# CheckPadとか?
# Wemaとか?
Wiki開発はけっこう楽しい……。
裏をかえせば
良くも悪くも、日本のWiki開発者はそれで遊ぶことを目的にしているかもしれない。
開発リソースの不足。
ユーザーも不足。
テコになるようなツールを作りがちかもしれない。
悪く言えばユーザー不在。
理解してもらえない感。
作ってそれを誰に見せるのか。
作ってそれを誰が使うのか。
ユーザーとの距離が遠いのかもしれない。
とかなんとか。
おしまい。
2006-02-18
# RSSに対応しました。
ふぅ。RSSに対応しました。
URIは昔と同じで、http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=diaryrssです。
現状では、コメントが投稿されてもRSSに反映しない仕様になっています。これでいいかどうかは、動かしながら考えてみるということで。
URIは昔と同じで、http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=diaryrssです。
現状では、コメントが投稿されてもRSSに反映しない仕様になっています。これでいいかどうかは、動かしながら考えてみるということで。
2006-02-13
# 表記の統一から徒然に
http://blogs.itmedia.co.jp/london/2006/02/asahi_9e95.html?ref=rssall
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/otashimasho/archives/50375268.html
個人的には、表記の統一というのは、良い効果もあるけど、悪癖も大きいんじゃないの?とずっと思っている。
著者が書いた原稿に、「表記の統一」という理由で編集者が手を入れる。そりゃあ、そうすることで読みやすくなることもあるので、否定はできない。でも、表記の揺れ自体が著者のオリジナリティでもあるわけで、それを殺すことになる。そういうことをしていいのか?
……そういうことを考える一方で、とんでもなく不細工な文章を仕上げてくる執筆者に困ることもある。表記の統一や文章の問題だけでなく、技術的な間違いが散見されたり、逆に広告的な主張が強く含まれていたり、さっぱり説得力がなかったり。こういう執筆者に「ちょっとここを書き直してくれ」とお願いしても、たぶん無駄だと思うので、ぼくの場合は自分で書き直してしまう(もちろん、問題が起こらない範囲で)。
下手な文章も、鼻につく主張も著者の味と思うところもあるけど、読者に読ませることを考えたら、なかなかそのまま載せるというのも難しい。直して載せるのではなく、もう没にしてしまうという手もあるだろうけど、雑誌の進行ではそれも難しいし。
そういうことをいろいろ考えるうちに、「原稿は著者のものではない」という考え方が落としどころかもしれないと(あらためて)思いはじめた。雑誌の場合はとくに、その本が売れなければ、著者だけでなく編集者や出版社にとっても死活問題になる。だから誌面は、読みやすく面白いものでなければならない。そのために編集の手が入るのは仕方がない面があると。
ただ、この考え方はスマートじゃない。コンテンツの面白さを追求する一方で、出版社の死活問題というオマケを抱え込んでしまっているから。それは面白さにとっては足枷以外のなにものでもない。また、マスにウケる方向に改変すると、オリジナルが含む毒が薄れてしまって、よくない。
出版社の死活や、マスにウケる方向性は、マスメディアだからこそ起こる問題だ。そこから解き放たれたインターネットには、そういうものはもう必要ない。ネットにおいても、編集の手を入れたりマス向けのコンテンツ振り分け器を導入したりできるけど、その手を使ったら、やっぱり毒を薄めることになる。ネットにあるコンテンツで一番面白いのは、結局のところ人手の介入しない、ワクにとらわれないものなんだろう。
『ASAhIパソコン』休刊に思ふ - 安藤怜のロンドン灯 [ITmedia オルタナティブ・ブログ]しかし、この「表記の統一」が、どれだけ雑誌の売り上げに貢献してきたかは、実際のところ、よくわかりません。そして、出版界も不況が長引くにつれて、そういう部分にあまりコストをかけられなくなってきているようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/otashimasho/archives/50375268.html
# 2006年02月13日 kanose 『[ネット]雑誌の表記統一が何を生んだのかというのは考えてみると面白そう』
個人的には、表記の統一というのは、良い効果もあるけど、悪癖も大きいんじゃないの?とずっと思っている。
著者が書いた原稿に、「表記の統一」という理由で編集者が手を入れる。そりゃあ、そうすることで読みやすくなることもあるので、否定はできない。でも、表記の揺れ自体が著者のオリジナリティでもあるわけで、それを殺すことになる。そういうことをしていいのか?
……そういうことを考える一方で、とんでもなく不細工な文章を仕上げてくる執筆者に困ることもある。表記の統一や文章の問題だけでなく、技術的な間違いが散見されたり、逆に広告的な主張が強く含まれていたり、さっぱり説得力がなかったり。こういう執筆者に「ちょっとここを書き直してくれ」とお願いしても、たぶん無駄だと思うので、ぼくの場合は自分で書き直してしまう(もちろん、問題が起こらない範囲で)。
下手な文章も、鼻につく主張も著者の味と思うところもあるけど、読者に読ませることを考えたら、なかなかそのまま載せるというのも難しい。直して載せるのではなく、もう没にしてしまうという手もあるだろうけど、雑誌の進行ではそれも難しいし。
そういうことをいろいろ考えるうちに、「原稿は著者のものではない」という考え方が落としどころかもしれないと(あらためて)思いはじめた。雑誌の場合はとくに、その本が売れなければ、著者だけでなく編集者や出版社にとっても死活問題になる。だから誌面は、読みやすく面白いものでなければならない。そのために編集の手が入るのは仕方がない面があると。
ただ、この考え方はスマートじゃない。コンテンツの面白さを追求する一方で、出版社の死活問題というオマケを抱え込んでしまっているから。それは面白さにとっては足枷以外のなにものでもない。また、マスにウケる方向に改変すると、オリジナルが含む毒が薄れてしまって、よくない。
出版社の死活や、マスにウケる方向性は、マスメディアだからこそ起こる問題だ。そこから解き放たれたインターネットには、そういうものはもう必要ない。ネットにおいても、編集の手を入れたりマス向けのコンテンツ振り分け器を導入したりできるけど、その手を使ったら、やっぱり毒を薄めることになる。ネットにあるコンテンツで一番面白いのは、結局のところ人手の介入しない、ワクにとらわれないものなんだろう。