メッセージ。 - diary

2006-02-03

# お食事中の方は読まないでください

たまには真剣に、人生を揺るがす問いに答えてみるか。

http://www.hatena.ne.jp/1138967944
 はてな 「うんこ味のカレー」と「カレー味のうんこ」どうしてもどちらか食べなければならないとしたら、どっちを食べますか。ただし「うんこ味のカレー」は見・・
 
 「うんこ味のカレー」と「カレー味のうんこ」
 どうしてもどちらか食べなければならないとしたら、どっちを食べますか。
 ただし
 「うんこ味のカレー」は見た目はカレーそのものですが、匂い、味などはうんこそのものです。
 「カレー味のうんこは」は見た目はうんこそのものですが、匂い、味などはカレーそのものです。
 
 理由もいわしで教えてもらえるとうれしいです。

これはそんなに難しくない問題。見方を変えればいいんだよ。結論から言うと、こう。

「分かった。どっちかは食べる。ただし条件がある。ぼくの好きなグラビアアイドルのうんこにしてくれ。本人の立会いがあるとなお可」

……よし。いいぞ。
カレーの味がするけど、だけどグラビアアイドルのうんこか、
グラビアアイドルのうんこの味がするけどカレーか、
どっちかを食べろという問題だね?

うーん。悩むなぁ。決められない。……あー困ったこまった。どうしようなー。うーんうーん。
2006-02-03 22:25:51 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 切込隊長さんかぁ……...

切込隊長さんかぁ……。そんなによく知ってるわけじゃないけど、あの人のすごいところは、衆目を集めることに恐怖を感じないところ、のような気がする。ひろゆきさんにもそういうところがありそうだけど。行動力に近い能力かもしれない。ロジックの正しさ、視点の鋭さ、弁が立つこと、そういう才能はまぁ、彼らのほかにも持っている人がたくさんいる。だけど、多少なりともダーティな言動で衆目を集めながら、自分というものを保ち続けられると思う人は多くない気がする。普通の切れ者なら、「変な人にからまれたらどうしよう」とか、「そこは自分の(メッセージを発する)場所じゃない」とか思うものだし、へたに目立って叩かれて、ホコリが出たらこまるというものだ。多くの人目に触れて、トクすることなんてあまりない。そういう意味で、ぼくなんかから見れば、彼らはある種捨て身の戦術をとっているように見える。ホリエモンなんかもそうだけど。
2006-02-03 15:00:57 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-02-02

# トリックスターとヒステリー

http://blog.tatsuru.com/archives/001538.php
 内田樹の研究室: メディア・リテラシーとトリックスター

うーん。すごく面白かったです。

話は変わるかもしれないけど、個人的にホリエモンの事件でもっとも極立った問題意識を感じたのは、仕事や職というものの有り様だった。あのように苛烈にホリエモンを批判するメディアは、ヒステリックに見えたし、社会的存在というものがそのようなヒステリックな行動を取ることにびっくりした。

マスメディアというものは、社会に真実を伝えることを至上命題とし、そのためにはつねに冷静で、偏見のないものの見方をしなければならないはずではなかったのか? メディアの持つ力は大きい。そして大きい力を持つがゆえ,慎重にその能力を行使しなければならないはずだ。それは社会から預かった能力・機能だからだ。

しかし、あのようにヒステリックな報道を見ていると、マスメディアというものがいかに、自らの内的な感情に突き動かされ、自らのために社会的機能を使用しているのか、と考えてしまう。

これはメディアだけの問題ではないのかもしれない。ホリエモンが逮捕された翌日、テレビを見ていたら「ホリエモン 独居房へ」という新聞記事が紹介されていた。東京拘置所の独居房には、現在スーフリ事件の容疑者がいて、その隣が空いているらしい。そのテレビ番組によると、東京地検の人間たちは「スーフリの隣にホリエモンを放りこめ」を合言葉に捜査を進めていたとかいないとか。
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200601/sha2006012401.html

これを聞いて、とても嫌な気分になった。「スーフリの隣に」なんて、なんともひどい生理的嫌悪感、残酷な衝動でことにあたるものではないか。スーフリという汚物の隣に容疑者を置いて汚す。そんな行動にカタルシスを覚えることに、正義はあるだろうか? 容疑者というのは罪人ではない。罪を犯したかどうか、まだはっきり分からない人間だ。そのような人に対して、たとえ自分が疑っているとはいえ、生理的嫌悪感をもってあたることが正しいんだろうか? 容疑が間違っていたらどうするのか? 社会から与えられた力・役割を、そのような動機で使うことは正しいんだろうか?

東京地検の人の合言葉はマスメディアを通して見聞きしたことなので、差し引いて考えなければいけないだろうと思う。だけど、それがもし事実であれば、嫌なことであるように感じる。マスメディアにしろ東京地検にしろ、与えられた役割は重要でその力も大きい。家にたとえるなら、地検やマスメディアは父で、そこに暮らす市民は子供か妻だ(えーと。父と妻のたとえはとりあえず。言葉のあやということで)。あのような気分屋で残酷な父を持った家は、どのような家庭であるだろうか? 父の疳積に触れないよう、おびえて暮らさなければいけないのか?

……たしかにこれは、地検やメディアに限らない。すべての社会的組織は、家庭における父の役割を果たすといえる。だからそこで働く人は、みなが気を付けなければいけないのだと思う。自分が、自分の職場において、そのようなカタルシスで対応していないかというのは考えてみなければならないだろう。いま一度、仕事や社会について考えなおさなければいけないなと思った。
2006-02-02 14:14:00 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ところで、お仕事が佳境で、もうツカレマチタ

Momokaのトラックバック機能をちゃんとしようと、しているのですが、ほかにもいろいろ変えたいところあり。
デザインを気軽に変えられるようにしたいとか、改造しやすいようにしたいとか。
もういまのシステムも1年以上使ってるし、また1から作りなおしてもいいよね……
ということで、新しいバージョンを作り中。
http://nnri.dip.jp/~yf/momoka0.20.cgi

まだ、トラックバックは、動きません……。
2006-02-02 11:38:13 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「工夫の余地があって面白い」

「工夫の余地があって面白い」というのがキーワードじゃまいか? たとえばiPod、Google、Amazon、Web。

口コミの効果が大きい時代。口コミを誘発する仕組み。
2006-02-02 00:25:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-02-01

# メディアと安心感・緊張感

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0201/pda48.htm
 塩田紳二のPDAレポート 「W-ZERO3を分解する」

「中身が気になったので結局開けてしまった。」で始まるところがすごいなと思った。だってこれ、自分というコンテキストが受け入れられていること前提の出だしだもの。まるで友達に話しかけるような単刀直入さ。自分の「場」になってしまっている。ブログならまだしも、impress.co.jpってかなり公の色が強い場所だと思うんだけどなぁ(急いで付け加えると、悪いことだと言っているわけではない)。ミニコミ誌の読者コーナーとかにありがちなよいムード。(ミニコミ誌って読んだことないんだけど。でもなんか分かる気がするんだけど)。ライブドアのPJニュースや、メディアの枠至上主義なんかを見てて、最近ちょっと思うところがあったのでメモ。
2006-02-01 04:30:31 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-01-31

# 姉と妹のお話

http://www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20051227#p01

姉と妹のお話。面白かった。長い文章が書けるってうらやましいな。まるで自由に空を飛んでいるような。そんな息遣いを感じました。
2006-01-31 21:20:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-01-30

# マスメディアの枠至上主義

http://knn.typepad.com/knn/2006/01/post_3.html
 KandaNewsNetwork: ニュースの作られ方
 
 どの局も、取材時点の前で、報道したい演出を決め込んできている。そのキーワード以外は何を訴求してもムダだった。テレビはやはり、ビデオでなく、生出演でなければだめだと思った。

そうそうそうそう! マスメディアに接するうえで、このへんを理解しておくのはすごく大事。テレビに限らず、新聞でも雑誌でも、マスメディアってワクが決まっちゃってることの弊害がけっこう大きい。

枠至上主義とでも言うのかなぁ。たとえば、新聞なんかを見ていても、文字が印刷されていないスペースはほとんどない(広告枠を除いて)。たとえその日が平和な一日で、ニュースにするような記事がなかったとしても、とにかく枠を埋めることが要求されるからだ。

だからメディアの人間は、自分の担当する枠に穴が空くことを一番恐怖する。とにかく何か、ネタネタネタ。埋められるものを探して自転車操業しているところも多い。だから神田さんが経験したようなことが起こる。

枠を埋めることを優先していると、ディレクターはまずストーリーを作って「あのネタはこれくらいの分量だな」、「ここにこのコンテンツを置いて盛り上げ、このへんを結論にしよう」とか考えざるを得なくなる。「調べてみたらこうでした。ネズミ一匹しか出ませんでした。時間余りました」みたいなのは許されない。少なからず予定調和がそこにある。

……ただね。まぁそれは仕方がないんだよ。メディアの制作現場でも、思いのほか少ない予算で作ってたりする。また、さまざまなしがらみや人間関係、組織の問題、個人の能力の問題などでうまく回らなかったりもする。すごい人もいればダメな人もいて、とにかくそれはスーパーな現場じゃない。ぼくらが日々苦労しているようなことが、メディアの現場でもたくさん起こってる。

そういう意味でね。「メディアなんてそんなもん」という感覚は持っておいたほうがいいと思うんだな。ネガティブな意味じゃなくてさ。彼らもスーパーマンじゃないってことで。こういう感覚を理解するうえで、神田さんの今回の記事はとても有意義なものだなぁと思った。

# 蛇足。よくメディアの報道を陰謀論なんかと絡めて考える人がいるけど、そういうのがないとは言わないけど、恣意性とか足並みそろえるのとか、そんなにうまくいかないような気がするですよ。
2006-01-30 16:28:35 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

# 空がきれいな、よい休日でした

昨日の晩御飯のとき。マクドナルドでダブルチーズバーガーをほおばっていたら、椅子のかどからそおっと顔を覗かせて、クスクスクスクス笑っている子供を見つけた。金髪にオーバーオールの男の子だ。席を探すとき、外国人らしい夫妻を見かけたから、たぶんそこのお子さんなんだろう。退屈して、遊び相手を探してる様子がありありと見えた。

ぼくはハンバーガーにかぶりつきながら、ゆっくり視線を反対に向け、そしてさっと振り返る。椅子の向こうに金色をなびかせて、キャッキャキャッキャと声がする。そんなことを何度も何度も繰り返しながら、晩御飯の時間は過ぎていった。こういうとき英語が離せれば、何か話しかけられるのに。

……それにしても、いまどき珍しい光景だったよ。外国の子とはいえ、ああいう風に遊ぶ子供が、いまもいるんだねぇ。赤坂という土地と頑是ない子供の遊び。金髪の少年と30代オタク男子。休日の都会に淡く重なるようなコントラスト。それにしても、なーんでぼくなんだろうねぇなんて思うのは、いつもの自意識過剰かもしれないけど。
2006-01-30 02:53:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
recent days<< | >>old days