メッセージ。 - diary
2006-01-23
# ハウルを見てきたよ
えーと、友達が『ハウルの動く城』を見てきたと日記に書いてたので、昔mixiに書いた日記を再掲しようかなと。古いやつだけど、……いいよね? 日付はえーと、2005年02月25日でした。わー。あれからもうすぐ1年になるんだねぇ。
ハウルを見てきたよ
って日記をずっと前から書こうとしてるんだけど、できずにいた。
映画はまぁまぁ面白かったんだけど、どこがどう面白いか説明できなかったからだ。
映画生活.comでも評価が分かれていて雰囲気が悪い。ストーリーが中途半端であるとか、メッセージが不明瞭であるなどの原因があるんだろう。
# 参考までに映画生活.com
# http://www.eigaseikatu.com/title/4544/
ぼくがハウルを面白いと思ったのは、なんとなくだった。映画を見終わった後、なんとなくキャラクターが好きになって「よかったね」と思えた。ストーリーの面白さとか映画的エンターテイメントという意味では物足りないところがあったけど、まぁいいやと思えるレベルだった。ひとことで言うと「スカッとした」って感じ? ……違うかな。やっぱり「なんとなく」かも。
一緒に見た人に「どうしてソフィがおばあさんになったり若くなったりしたの?」と聞かれたときには、口がこんなことを勝手にしゃべっていた。「結局、魔法は心が作り出すものなんじゃないかな。魔法のように不思議なことも、悲しみも喜びも、結局は心が生み出すものなんだよ」。……そういう意味では、この話はソフィという少女の生き方を軸に、心の魔法性をテーマにしたものといえるかもしれない。
先日あるblogで、この映画について、素朴だけどぴったりの表現だって感じる評価を見つけた。
http://blog.goo.ne.jp/enjugumi/e/3f3c9d2f0c345bc02f3054b8a9e6ea50
<<
なるほどと思わされる。生き生きとしたキャラクターの魅力こそがテーマ? だとしたら、極端な尻すぼみのストーリーも、キャラクターがテーマだよというメッセージを伝えるためのテクニックだといえるかもしれないね。そんな風に思い、とても納得できた。
ハウルを見てきたよ
って日記をずっと前から書こうとしてるんだけど、できずにいた。
映画はまぁまぁ面白かったんだけど、どこがどう面白いか説明できなかったからだ。
映画生活.comでも評価が分かれていて雰囲気が悪い。ストーリーが中途半端であるとか、メッセージが不明瞭であるなどの原因があるんだろう。
# 参考までに映画生活.com
# http://www.eigaseikatu.com/title/4544/
ぼくがハウルを面白いと思ったのは、なんとなくだった。映画を見終わった後、なんとなくキャラクターが好きになって「よかったね」と思えた。ストーリーの面白さとか映画的エンターテイメントという意味では物足りないところがあったけど、まぁいいやと思えるレベルだった。ひとことで言うと「スカッとした」って感じ? ……違うかな。やっぱり「なんとなく」かも。
一緒に見た人に「どうしてソフィがおばあさんになったり若くなったりしたの?」と聞かれたときには、口がこんなことを勝手にしゃべっていた。「結局、魔法は心が作り出すものなんじゃないかな。魔法のように不思議なことも、悲しみも喜びも、結局は心が生み出すものなんだよ」。……そういう意味では、この話はソフィという少女の生き方を軸に、心の魔法性をテーマにしたものといえるかもしれない。
先日あるblogで、この映画について、素朴だけどぴったりの表現だって感じる評価を見つけた。
http://blog.goo.ne.jp/enjugumi/e/3f3c9d2f0c345bc02f3054b8a9e6ea50
『ハウル』はもういろんな人がいろんなことを言っているから、期待半分くらいで観たのだけど、老婆になっても全然前向きなソフィーはすごいと思ったですよ。敵だったひとが全部味方になっていくさまとかね。結局一番の魔法使いはソフィーだったって話でしょ?>
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なるほどと思わされる。生き生きとしたキャラクターの魅力こそがテーマ? だとしたら、極端な尻すぼみのストーリーも、キャラクターがテーマだよというメッセージを伝えるためのテクニックだといえるかもしれないね。そんな風に思い、とても納得できた。
2006-01-22
# マンションの偽装設計はモデルルーム見学で見抜けるか?
http://blog.a-utada.com/chikyu/2005/12/post_3c31.html
なかなか面白かった。エコシステムとからめて考えるところがありメモ。
歌田明弘の『地球村の事件簿』: あわや偽装設計マンションに住むところだった‥‥
なかなか面白かった。エコシステムとからめて考えるところがありメモ。
# システム障害はなぜ起こるのか?
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060120/1137740301
↑は個人的なメモ。東証とニューヨーク証券取引所では一日に処理できる件数が100倍違い、とくにクリティカルなシステム要件であるレスポンスタイムが、10秒と0.2秒というような開きがあるとのこと。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20051222/226680/
誰でも昔からそう思ってんじゃね? ぼくはこれ、2002年ごろに考えてました。それで(それを改善したくて)いまの業界に転職したんだもん。システム障害に関してだけじゃなくて、開発でトラブルになるのも同じだよね。
木走日記 - 抜本的改良は手遅れな東京証券取引所システム〜問われる技術立国日本の脆弱性
↑は個人的なメモ。東証とニューヨーク証券取引所では一日に処理できる件数が100倍違い、とくにクリティカルなシステム要件であるレスポンスタイムが、10秒と0.2秒というような開きがあるとのこと。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20051222/226680/
システム障害の根源はIT部門の弱体化にある---針路IT(15回):IT Proシステム障害の根本的な原因は、IT部門の弱体化にありそうだ。こんな考えを持ち始めた業界関係者はきっと多いことだろう。証券会社のIT部門に在籍したことのある東京情報大学の玉置彰宏教授もその1人だ。ITは本流でないとし、IT部門を縮小したり子会社化したりする。さらにIT子会社を売却してしまう。そんな企業がIT部門の人材育成に力を入れるわけもなく、システム開発はITベンダーに丸投げする。
誰でも昔からそう思ってんじゃね? ぼくはこれ、2002年ごろに考えてました。それで(それを改善したくて)いまの業界に転職したんだもん。システム障害に関してだけじゃなくて、開発でトラブルになるのも同じだよね。
2006-01-21
# VMware Playerが便利という話
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://yamashita.dyndns.org/blog/343
ずいぶんたくさんブックマークされてるなぁ……。実はこの技、オープンソースマガジンの12月8日発売号に載ってるんだよね。ぼくがこの技を知ったのが、たしか11月の中ごろ。これを記事にしたらどう?って打診したら、「もう企画が進んでて12月売りに載るよ」とのことだった。
で、実際12月8日発売号で記事になったわけだけど、反響はそれほど大きくなかったみたいなんだよなぁ……。今回のはけっこう使える技で、たくさんの人が求めるものだと思うんだけど、営業効果がないというのはいかんね。
はてなブックマーク - 本当に無償で使える「VMware Player」 — Weboo! Returns.QEMUに含まれるツールには、VMware用のディスクイメージを作成する機能があります。これでディスクイメージを作ればいいだけじゃないのかと思って、実際に試したところ、あっけないくらい簡単に動いてしまったので、その手順をここに書きます。
ずいぶんたくさんブックマークされてるなぁ……。実はこの技、オープンソースマガジンの12月8日発売号に載ってるんだよね。ぼくがこの技を知ったのが、たしか11月の中ごろ。これを記事にしたらどう?って打診したら、「もう企画が進んでて12月売りに載るよ」とのことだった。
で、実際12月8日発売号で記事になったわけだけど、反響はそれほど大きくなかったみたいなんだよなぁ……。今回のはけっこう使える技で、たくさんの人が求めるものだと思うんだけど、営業効果がないというのはいかんね。
2006-01-20
# ありゃ? こんな記事...
ありゃ? こんな記事を見つけちゃった。宮崎さんはオタクじゃなかった?という暴露話のようです。
(追記:コメントまで読むと、「オタクじゃなかった?」というのは言いすぎのようですね。難しいなぁ)
ToS : silver shooting star : 宮崎勤事件を覚えてますか?
http://utaukaeru.exblog.jp/3803644/
(追記:コメントまで読むと、「オタクじゃなかった?」というのは言いすぎのようですね。難しいなぁ)
ToS : silver shooting star : 宮崎勤事件を覚えてますか?
http://utaukaeru.exblog.jp/3803644/
# オタクの動機
「動機が解明されなかった宮崎事件」というくだり、もしかしたら動機が解明されないのも当然なんじゃないか?と思った。なぜなら、宮崎さんのようなオタクにとって、自分の動機(何をしたいか)というものは最も隠しておきたいものだからだ。裁判官や検察やお茶の間の人間などに、自分が何をしたいかを理解されてたまるかとオタクは思っている。
オタクは、メタに振る舞ったりアニメのような仮想世界を道具に使ったりするけど、それらは社会や仲間に対するマスカレード(と自己認識のメタ化)が目的のような気がする。理解されてはいけないのだ。たとえばスーパーマンの正体がバレてはまずいのと同じように。それは神聖なもので、汚れた人間の手に触れさせてはいけないものだという考えがある気がする。
そういう意味では今回の事件、報道記者や識者をして「動機が分からなかった」と言わしめたのは、ある意味宮崎さんの勝利なのかもしれない。彼は一番大事なものを守ったのだ。
オタクは、メタに振る舞ったりアニメのような仮想世界を道具に使ったりするけど、それらは社会や仲間に対するマスカレード(と自己認識のメタ化)が目的のような気がする。理解されてはいけないのだ。たとえばスーパーマンの正体がバレてはまずいのと同じように。それは神聖なもので、汚れた人間の手に触れさせてはいけないものだという考えがある気がする。
そういう意味では今回の事件、報道記者や識者をして「動機が分からなかった」と言わしめたのは、ある意味宮崎さんの勝利なのかもしれない。彼は一番大事なものを守ったのだ。
2006-01-19
# 論理と善悪
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_1c33.html
はげどうのところもあるけど、うーん。……まぁ、よい問題提起。
いまよりもう少し若かったころ、どうして過失が罪になるんだろうと考えたことがある。たとえば、手術中にミスをして人を死なせてしまったお医者さんがいた場合、それは罪になるんだろうか? 手を抜く人や技術が圧倒的に足りない人は論外としても、一生懸命頑患者さんのために張って失敗する人もいるだろう。そういう人たちを「人を殺した」といって同列に扱うのは合理的だろうか?
人間はミスをする。ミスをした人に対して「反省しろ」と刑を執行したとして、改善するだろうか? 反省とミスには、それほど大きな相関関係がないと思う。いいところ、まわりの人が他山の石として気を引き締めるぐらいではないか。どんなに頑張っても人間はミスをする。「ミスを100%なくそう」とするなら、人間を全部始末して機械にやらせるしかない。しかし、機械だけが住む国なんて、社会とは呼べない(ここでは社会の定義はおいておく)。
あるいはとてもとても悪いことを考えて、それを合法的に実行してしまう人がいる。たとえばヒットラーさんなんかはそうだろうし、帝国主義でほかの国の人を苦しめた人たちもそうだろう(「悪い」の定義はとりあえずおいておく)。そういう人たちは、合法であるからといって反省の必要がないのだろうか。後世の人がそれを見て「あれはいけないことだ」と思わなくてよいのだろうか。
結局のところ、法やシステムに善悪は判断できない。人殺しに使われたといって、包丁やピストルに罪がないのと同じだ。物理や機械や論理には、善悪がない。きっと人間の体にも善悪がない。それが存在するのは心の中だ。罪人の体を刑によって制限するということは、包丁やピストルを破棄する以上の効果がない。それでは足りないのだ。善悪という観点では。
もし、社会に善や悪という概念が必要ないならば、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定することは合理的であると思う。しかしそれは、人間や社会から善や悪の概念を奪うものである。機械になれと言うようなものだと思う。
たけくまメモ: 宮崎勤の死刑判決に思う結局のところ、動機主義と司法の論理とは根本的に相容れないものがあるのではないか。人間の行為は裁けても、心の中までは、誰も裁けないのだ。であるならば、動機の詮索なんかは最初から止めて、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定すればいいのではないだろうか。
はげどうのところもあるけど、うーん。……まぁ、よい問題提起。
いまよりもう少し若かったころ、どうして過失が罪になるんだろうと考えたことがある。たとえば、手術中にミスをして人を死なせてしまったお医者さんがいた場合、それは罪になるんだろうか? 手を抜く人や技術が圧倒的に足りない人は論外としても、一生懸命頑患者さんのために張って失敗する人もいるだろう。そういう人たちを「人を殺した」といって同列に扱うのは合理的だろうか?
人間はミスをする。ミスをした人に対して「反省しろ」と刑を執行したとして、改善するだろうか? 反省とミスには、それほど大きな相関関係がないと思う。いいところ、まわりの人が他山の石として気を引き締めるぐらいではないか。どんなに頑張っても人間はミスをする。「ミスを100%なくそう」とするなら、人間を全部始末して機械にやらせるしかない。しかし、機械だけが住む国なんて、社会とは呼べない(ここでは社会の定義はおいておく)。
あるいはとてもとても悪いことを考えて、それを合法的に実行してしまう人がいる。たとえばヒットラーさんなんかはそうだろうし、帝国主義でほかの国の人を苦しめた人たちもそうだろう(「悪い」の定義はとりあえずおいておく)。そういう人たちは、合法であるからといって反省の必要がないのだろうか。後世の人がそれを見て「あれはいけないことだ」と思わなくてよいのだろうか。
結局のところ、法やシステムに善悪は判断できない。人殺しに使われたといって、包丁やピストルに罪がないのと同じだ。物理や機械や論理には、善悪がない。きっと人間の体にも善悪がない。それが存在するのは心の中だ。罪人の体を刑によって制限するということは、包丁やピストルを破棄する以上の効果がない。それでは足りないのだ。善悪という観点では。
もし、社会に善や悪という概念が必要ないならば、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定することは合理的であると思う。しかしそれは、人間や社会から善や悪の概念を奪うものである。機械になれと言うようなものだと思う。