メッセージ。 - diary
2005-10-27
# Wiki小話/Vol.2
http://wikibana.socoda.net/wiki.cgi?Wiki%be%ae%cf%c3%2fVol%2e2
「お仕事帰りに気楽に聞ける」というWiki小話。第2回はWikiと著作権がテーマとのことです。講師は、「Web Site Expert」や「萌える法律読本 ディジタル時代の法律篇」にたずさわった方とのことで、興味深いです。当初20人だった席がすぐ埋まってしまい、50人まで枠が広がりました。幹事さんの粋なはからいに感謝。
Wiki小話/Vol.2
「お仕事帰りに気楽に聞ける」というWiki小話。第2回はWikiと著作権がテーマとのことです。講師は、「Web Site Expert」や「萌える法律読本 ディジタル時代の法律篇」にたずさわった方とのことで、興味深いです。当初20人だった席がすぐ埋まってしまい、50人まで枠が広がりました。幹事さんの粋なはからいに感謝。
2005-10-18
# Ajaxのユーザビリティはgoodか?
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20051018#p01
うへぇ。これと同じことを、ちょうどWikiばな/Vol.5の雑談で話した(たしかたろうさんに)。Momoka2にも若干Ajax的なコードが入っているけど、おおむねスイッチオフにしている。ユーザビリティ的に難しいのよ。
Ajaxという未来をWEBという歴史にどう接続するか「戻る」ボタンがあることによって、ユーザは安心してある画面から次の操作を試すことができて、その結果、予期しない都合が悪いことが起きたら、いつでも「戻る」ことができる。つまり、「戻る」とは情報の探検におけるUNDO(「取り消し」)なのだ。……Ajaxでは……しかし、期待に反して、そのページの前に見ていた全く関係の無いページまで戻ってしまう。WEBブラウジングというアプリケーションの状態は、ブックマークとして保存できるだけではなくて、URLによって他の人と共有できることに価値がある。ほとんど全てのWEBサイトが共通に持っている、こういう特性をAjaxは破壊してしまう可能性があるのだ。
うへぇ。これと同じことを、ちょうどWikiばな/Vol.5の雑談で話した(たしかたろうさんに)。Momoka2にも若干Ajax的なコードが入っているけど、おおむねスイッチオフにしている。ユーザビリティ的に難しいのよ。
# Wikiばな/Vol.5に参加してきました
少し時間がたっちゃったけど、Wikiばな/Vo.5に参加してきました。「家に帰って日記を書くまでがWikiばなだ!」と言われたにもかかわらず、遅くなっちゃってごめんなさい。だって、いろいろありすぎて、うまく書ける自信がなくってさ。
えーと、ぼくがポジションペーパーに書いたのは、
- メモ、検索、メタ情報
- 人間をエンパワーするソフトウェア
それと、なんだっけ? 忘れた……。資料が手元にないので、あとで書きます。まぁとにかく、「まだそんなこと言ってるの?」とか、「またそんなこと言ってるの?」とか言われそうな古いネタです。
世間的にはそんなメタテーマは過去の話のようで、会場での主な話題は「Wikiを使ってもらうには?」とか、「Wikiスパムにどう対抗するか?」というものだったようです。
なかでも、livedoor Wikiのマネージャ(?)をされている谷口さんのお話は大変面白く、「Wikiはホームページを作る道具の一種」、「みんな自分のホームページ見てほしがっている。Wikiはそれに使える」、「エロネタやバカネタで楽しんでもらう」といった意見に膝を打つ思いでした。
会場ではあまり反響が得られませんでしたが、「大乗Wikiだなぁ」と思った次第。いままでのWikiユーザー/開発者は、メタな議論や意味論に興味を持ちがちで、潔癖なところがあった。「ついて来れる人だけでやればいい」という、小乗仏教的なコミュニティを形成しがちだったんじゃないかなぁと。
……なんて、気付くとまた一人でメタメタしていますが、とにかくいろいろ楽しい一日でした。幹事のみなさん、議論させていただいた方々、どうもありがとうございました。
えーと、ぼくがポジションペーパーに書いたのは、
- メモ、検索、メタ情報
- 人間をエンパワーするソフトウェア
それと、なんだっけ? 忘れた……。資料が手元にないので、あとで書きます。まぁとにかく、「まだそんなこと言ってるの?」とか、「またそんなこと言ってるの?」とか言われそうな古いネタです。
世間的にはそんなメタテーマは過去の話のようで、会場での主な話題は「Wikiを使ってもらうには?」とか、「Wikiスパムにどう対抗するか?」というものだったようです。
なかでも、livedoor Wikiのマネージャ(?)をされている谷口さんのお話は大変面白く、「Wikiはホームページを作る道具の一種」、「みんな自分のホームページ見てほしがっている。Wikiはそれに使える」、「エロネタやバカネタで楽しんでもらう」といった意見に膝を打つ思いでした。
会場ではあまり反響が得られませんでしたが、「大乗Wikiだなぁ」と思った次第。いままでのWikiユーザー/開発者は、メタな議論や意味論に興味を持ちがちで、潔癖なところがあった。「ついて来れる人だけでやればいい」という、小乗仏教的なコミュニティを形成しがちだったんじゃないかなぁと。
……なんて、気付くとまた一人でメタメタしていますが、とにかくいろいろ楽しい一日でした。幹事のみなさん、議論させていただいた方々、どうもありがとうございました。
2005-10-14
# Momoka2、不具合修正
Momoka2、RSSを出力できない不具合があったので修正しました(ご迷惑をおかけしてすみません)。細かな修正をほどこして、yaws、Momokaそれぞれ0.04、0.14となりました。一応ソースを置いておきます。
http://nnri.dip.jp/~yf/source/yaws-0.04.tar.gz
http://nnri.dip.jp/~yf/source/Momoka-0.14.tar.gz
http://nnri.dip.jp/~yf/source/yaws-0.04.tar.gz
http://nnri.dip.jp/~yf/source/Momoka-0.14.tar.gz
2005-10-13
# コミュニケーションと社会性
http://japan.cnet.com/column/suematsu/story/0,2000048844,20062194,00.htm
アメリカの大学ではコミュニケーション能力を鍛錬する、文書作成能力が鍛えられると聞くけど、日本の大学ではなかなか難しいだろうなと思う。コミュニケーションというのは人格に近いところの能力だ。「相手の言うことを聞く」なんて簡単そうに思えるけど、「本当に」相手の言うことを理解しようと思うのは簡単なことではない。
たとえば、17や18そこらの若者が、50も60も過ぎた、はげづらの冴えないオッサンの言うことを聞こうと思うだろうか? 思わないでしょう? 表面上は話を聞くかもしれない。だけど、「この人はなぜこういうことを僕に言うんだろう?」とか、「この人のどういった過去がこの言葉を言わせるんだろう」とか考えてるわけじゃない。つまり言葉の重さや背景というものに気付かない。
それはなぜか? 単純に、そのオッサンに対して興味を持てないんだ。感情移入ができない。知る必要が感じられない。だから言葉の意味を理解しようと思えないし、説明しようとしていることにも興味が持てない。オッサンと若者の間に、深い深い断絶がある。日本の大学には、師弟関係というものが存在しないんだ。
そういう師弟関係のない状態で、相手の人格に立ち入るような教育、学問、創造的活動というものがどれだけなされうるだろうか? オッサンに、「あなたのコミュニケーションはここに問題がある」と言われて、若者は素直に受け入れられるだろうか? 「ああそうか、本当にな」と心から感心し、人格に近い部分の改造に着手できるだろうか? たぶん無理だ。表面だけ取りつくろって点数を稼げばよいと思うだけだろう。
日本人のコミュニケーションは、とくにいまの日本人のそれは、基本的にそういうプロトコルになっている。相手の人格に立ち入らない、リスペクトのないプロトコルだ。それはなぜかというと、日本における標準プロトコルが、社会性というものに対してコミットメントできないものだからじゃないかなという気がしている。そういうところが、現実社会をつまらなくさせ、ネットのほうが面白いと感じさせる理由でもある。
吉岡: ……リーナスのコーディングは天才で、最初はいくつかのコードを書いてましたが、最近は皆から来るパッチを調整して出す、調整役です。彼の周りには素晴らしいコードを書くプログラマが何十人、何百人といて、その中の一番いいところだけをピックアップする、高いリーダーシップ能力を持ってるんですよね。末松: どういう人がリスペクトされるんでしょう。素晴らしいコードを書く以外に条件はありますか?吉岡: 第一にコードですが、ほかには「人の話を聞いて調整できる」ということ。コードをたくさん書いても調整能力がないと見なされれば、リスペクトされないし、メンテナーにもなれません。末松: それは本来の意味の「リーダーシップ」ですね。かなりレベルの高い集団だと思いますが、世界中から集まる、そのようなLinuxコミュニティで、日本の人たちが活躍できるようになるには、どういう要素が重要だと思いますか。吉岡: やはり、コミュニケーション能力でしょうね。英語だろうが日本語だろうがそれは一緒で、コミュニケートする訓練を積んでないと話になりません。個人的な意見ですが、日本での中学〜大学時代に、コミュニケーション能力を磨く訓練を教育機関なり、どこかのコミュニティの中でやれる機会はあまりない。受験勉強はしっかりやってますから知識はあるんですけどね。「君の意見はわかった、僕はこう思う」と意見を交わし合い、それでどうにか接点を見いだそうという練習をしていなければ、うまくいくわけがない。日本人で、世界で活躍されている方というのは、技術的に素晴らしいのはもちろんですが、それ以上にコミュニケーション能力に長けていると思うのです。
アメリカの大学ではコミュニケーション能力を鍛錬する、文書作成能力が鍛えられると聞くけど、日本の大学ではなかなか難しいだろうなと思う。コミュニケーションというのは人格に近いところの能力だ。「相手の言うことを聞く」なんて簡単そうに思えるけど、「本当に」相手の言うことを理解しようと思うのは簡単なことではない。
たとえば、17や18そこらの若者が、50も60も過ぎた、はげづらの冴えないオッサンの言うことを聞こうと思うだろうか? 思わないでしょう? 表面上は話を聞くかもしれない。だけど、「この人はなぜこういうことを僕に言うんだろう?」とか、「この人のどういった過去がこの言葉を言わせるんだろう」とか考えてるわけじゃない。つまり言葉の重さや背景というものに気付かない。
それはなぜか? 単純に、そのオッサンに対して興味を持てないんだ。感情移入ができない。知る必要が感じられない。だから言葉の意味を理解しようと思えないし、説明しようとしていることにも興味が持てない。オッサンと若者の間に、深い深い断絶がある。日本の大学には、師弟関係というものが存在しないんだ。
そういう師弟関係のない状態で、相手の人格に立ち入るような教育、学問、創造的活動というものがどれだけなされうるだろうか? オッサンに、「あなたのコミュニケーションはここに問題がある」と言われて、若者は素直に受け入れられるだろうか? 「ああそうか、本当にな」と心から感心し、人格に近い部分の改造に着手できるだろうか? たぶん無理だ。表面だけ取りつくろって点数を稼げばよいと思うだけだろう。
日本人のコミュニケーションは、とくにいまの日本人のそれは、基本的にそういうプロトコルになっている。相手の人格に立ち入らない、リスペクトのないプロトコルだ。それはなぜかというと、日本における標準プロトコルが、社会性というものに対してコミットメントできないものだからじゃないかなという気がしている。そういうところが、現実社会をつまらなくさせ、ネットのほうが面白いと感じさせる理由でもある。