メッセージ。 - なんの話だったっけ? という話。

# なんの話だったっけ? という話。

 
 私はきっと、恵まれない容姿の人がその恵まれなさから謙虚になる事を、無意識のうちに望んでしまっている。謙虚というのはつまり、その人が容姿や容姿の優劣が大きく関わる事柄(とくに恋愛やセックス)について堂々と表現・発言しない事、だ。そしてその謙虚さの欠如を、私は「恥ずかしい」と思ってしまう。直接的ではないにしろ、謙虚さも表現の中に込めてくれと願ってしまう。

分かるような分からないような。でもなにか、核心を突いているような気がしたのでメモ。

このことをあれこれ考えてみて、ひとつ思い付いたのは「海外ではお年寄りも水着を来て海辺で遊ぶ」という話。日本では、若いモン以外が海辺で、しかも水着着て遊ぶということが許されない雰囲気がある気がする。みっともないというか。そんなの見たくないというか。

潔癖性なのかなぁ。なにかすごく、日本人というのは「○○でなければいけない」というのに猛進しやすい気がする。枠からはみ出ることにすごく嫌悪感を持つというか。水着の似合う人しか水着姿を見せちゃいかんという雰囲気があるのはなんでなんだろう?

逆にグラビアアイドルなんかは、年がら年中水着で雑誌の表紙を飾っている。お年寄りが水着で海辺にいることに目をふさぎ、アイドルが真冬に水着でニッコリ笑ってることを歓迎する。なんなんだろう。多くの人は「なぜ水着?」とは考えない。「なぜこの雑誌は、毎月まいつき表紙に水着の女の子を載せるのか」。

そのほうが売れるだろうから? まぁそうなんだろうけど。でも立ち止まってよく考えると、そこには本質的なものがなにもない。美学というものが感じられない。そりゃあ水着の女の子が載ってたら見るけど、でもなにか、こう、それを見てグッとくるときなんてほとんどない。

水着といえば昔、ある女子プロレスラーの付き人が面白いエピソードを話していたなぁ。なんでもその女子プロレスの選手、対戦相手がどんな格好でリングに上がるかをすごく気にしていたらしい。選手はお付きの若いモンに毎度、「今日の対戦相手の○○が、どんな水着を着てくるか偵察してこい」と指示していたとかなんとか。相手の格好に合わせて、自分が着るものを変えるのだ。

なんか、この話を聞いたときは衝撃だったなぁ。プロレスという、かなり非現実的な舞台、しかも女が女であることをなかば捨てるイメージがあるその場へ、お洒落という日常を持ち込む。なにが彼女をそうさせるのか。まったく想像の埒外だった。それと、水着。あれはやっぱり、水着なのかという衝撃。なにかもっと、特別なものだと思っていたのに。想像してみるだに、ぼくにはできない。何か特別なものを身に着けて、リングに上がるのなら分かる。しかしそれは、単なる水着なのだ。
2006-04-05 03:04:06 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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