メッセージ。 - 中村うさぎさんの『私という病』を読んでいます

# 中村うさぎさんの『私という病』を読んでいます

# ネタバレ注意かもしれません。終盤の、かなり後ろのほうを引用しています。

 
 P. 159
 このように己の「主体性」にこだわる人間であるからこそ、男たちから一方的に性的対象として扱われることに対して、怒りや屈辱を感じるのである。それは、無理やり自分が受動的な立場に置かれることだからだ。私の意志を無視し、私の許可も得ずに、私の肉体を性的対象として扱うことは許せない。痴漢やセクハラをされた時、「人間性」を踏みにじられたかのような屈辱を感じるのは、そのためだ。彼らが私の「意志」を無視して扱うからだ。私の体は私のもの。他人が許可もなく触ったり、私の意志を尊重せずに性的行為を強要していいはずがない。その代わり、私が自分の意志に基づいて、「性的対象」となることを選んだのであれば、彼らが私の肉体を性的欲望の処理に利用しても一向に構わない。デリヘルという職業は、そういうことだ。私が自分の意志でこの仕事を選んだのだから、私の肉体は一方的に男たちの性的欲望の器になるのではなく、私の「主体性」の下に彼らの欲望を受け容れるのだ。「デリヘルなんかやる女は、男から欲望の対象にされたいんだから、何をやってもいい」なんて、とんでもない勘違いである。そこに私の意志、私の主体性が存在しているかどうかが、すべての要になっているのだから。

私の、私の、私の……かぁ。

「私」にこだわる力がすごいなぁ。そんなに思うものだろうか。
いい加減な感想を書いてみる。この人は、「私」というものが誰かに奪われ続けていると感じているのじゃないだろうか。「男から奪われている」ということもあるのだろうけど、それ以上に、私の肉体が、つねに誰かの好き勝手にされているとでもいうような感覚があるのじゃないかと想像した。

つまり、女の生理だ。私というものが、何らかの因果によって抑えつけられ、自分の自由や自分自身の所有権が奪われていることを強く感じているのではないか。

だからこそ、彼女はデリヘルを選んだような気がする。自分を奪う何かから、自分を奪い返す、そのための道具として男を利用したと。「何か」に奪われるのなら、男にでもくれてやれ、奪われる前に壊してしまえと。結局どちらにしても、自分の体は奪われたままだろうけど、そうすれば少なくとも、自分の意志は通せる。

自分を奪う何かと戦うために、自分を傷付ける。そうすることで、奪われることを回避し戦いに勝とうとしている、そんなような気がする。この本には男への嫌悪がよく出てくるけど、男に対する憎しみより、もっと強い、肚の底から湧きでてくるような嫌悪感につきまとわれている。そしてこの本には、それとの戦いが綴られているような気がした。

……などと冷静にまとめれば格好いいけど、実際は読むのがつらい本ですね。憎しみの波動が強すぎて。
男として、ぼくが憎まれていることをつらく感じるというのもあるけど、それだけじゃなくてね。
2006-04-15 13:33:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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