メッセージ。 - 新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う会社
# 新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う会社
どうでもいいことを書きます。
『ウェブ進化論』について、ちょっとここ違和感だなーという部分。かといって、本の価値を否定するものではありません(たぶん)。それくらいのどうでもいいことということで。
P.065
ここまではまぁいいとしよう。この後なんだよね。
P.067
こういう認識の仕方って正しいのかね? まぁこの本は、「こちら側」にいる人に分かりやすく状況を説明するためのものなので、説明が正確じゃなくてもいいとは思うけど。
ぼくの認識では、「コンピュータ・メーカー」というのはCPUを作る会社のことを指す。いや、ほかにもいろいろな部品を作る会社があるけど、「あくまで一番の核はCPUだ」と誰もが考えていたような気がする。
たとえば、マイコン少年なら誰でもスーパーコンピュータに憧れたのじゃないか。独自のCPUや高貴なアーキテクチャに夢を持ったのじゃないか。「もっと性能を」と望み、もっとメモリをと手を伸ばしていたような気がする。
少年に限らず、メーカーの中の人たちもそれぞれ「自社の」CPUを開発し、熾烈な競争をしていたように思う。電卓に使われるために作られたインテルのCPUなど、当初歯牙にもかけられなかったというのが実情だろう。みんな熱に浮かれるように(高性能で高貴な)CPUに熱中した。
そもそもコンピュータ・メーカーというのは、「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社ではなく、「新しい考え方のCPUを設計して世に問う」会社のことだったのではないかとぼくは想像している。いや、ぼくは最近になって(ここ10年ぐらいで)計算機に触れ始めたので、実感としては知らないんですけどね。でも外から来た人間だからこそ感じることもあるわけで。
そういう意味で、「価格性能比向上が著しいマイクロプロセッサやストレージといった部品群を大量に並べて」ということと、「全部ゼロから自分たちで作」るということが全然噛み合わない。
「ゼロってどこですか?」という話かもしれない。「フォン・ノイマンさんですか? チャールズ・バベッジさんですか?」。そこまで行かなくても、「CPUぐらいがゼロだろう」というのが、たぶんこれまでの計算機屋さんの感覚なんだよなぁ(あくまで外から来たぼくが見るかぎりw)。
だからたしかに、「それはどうでもいい。そこはゼロじゃない」と言うのなら結構新しいと思いますよ。それこそ本当に、「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社だと言えるかもしれない。でもそれはもう、コンピュータ・メーカーでもないのかもしれないっすね。皮肉とか悪い意味じゃなく。
そういうことを指摘しておくことに価値があるかなぁと思って書きました。大きく間違ってるかもしれないですけど。
『ウェブ進化論』について、ちょっとここ違和感だなーという部分。かといって、本の価値を否定するものではありません(たぶん)。それくらいのどうでもいいことということで。
P.065
ところで「コンピュータ・システムそのものを設計する」という学問分野は、コンピュータ・アーキテクチャとかシステム・ソフトウェアとか呼ばれていて、抜きん出て米国が進んでいる。しかしこの一〇年の学問的進歩は、IT産業にあまり活かされなかった。九〇年代にPC産業が巨大化し、マイクロソフトのOSとインテルのマイクロプロセッサだけに付加価値が集中したことはよく知られている。チープ革命は「規模の経済性」が強く働く分野で加速がつく。よってインテルとマイクロソフトが規定するPC周辺での価格性能比の向上が著しく、ユーザはその流れに身を任せていれば大満足となった。PCの価格性能比向上スピードに敵わなくなったという理由で、全く新しいコンピュータ・システムの設計は、コンピュータ・メーカーによって行われなくなってしまったのである。
ここまではまぁいいとしよう。この後なんだよね。
グーグルの二人の創業者(セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ)は、スタンフォード大学コンピュータ・サイエンス学科の出身だが(中略)そこで彼らが考えたのは、ネットの「あちら側」に自分たちが作る情報発電所は、「コンピュータ・システムそのものを設計する」という学問分野におけるここ一〇年の成果をすべてぶち込んで、全部ゼロから自分たちで作ろう、ということだった。価格性能比向上が著しいマイクロプロセッサやストレージといった部品群を大量に並べて、大規模な情報を高速に信頼性高く処理できる低コストのコンピュータ・システムを作ることにした。
P.067
そもそもコンピュータ・メーカーというのは、このように「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社のことだった。グーグルは、PC産業興隆の副作用として消滅した「本当のコンピュータ・メーカー」になろうとしたのだ。
こういう認識の仕方って正しいのかね? まぁこの本は、「こちら側」にいる人に分かりやすく状況を説明するためのものなので、説明が正確じゃなくてもいいとは思うけど。
ぼくの認識では、「コンピュータ・メーカー」というのはCPUを作る会社のことを指す。いや、ほかにもいろいろな部品を作る会社があるけど、「あくまで一番の核はCPUだ」と誰もが考えていたような気がする。
たとえば、マイコン少年なら誰でもスーパーコンピュータに憧れたのじゃないか。独自のCPUや高貴なアーキテクチャに夢を持ったのじゃないか。「もっと性能を」と望み、もっとメモリをと手を伸ばしていたような気がする。
少年に限らず、メーカーの中の人たちもそれぞれ「自社の」CPUを開発し、熾烈な競争をしていたように思う。電卓に使われるために作られたインテルのCPUなど、当初歯牙にもかけられなかったというのが実情だろう。みんな熱に浮かれるように(高性能で高貴な)CPUに熱中した。
そもそもコンピュータ・メーカーというのは、「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社ではなく、「新しい考え方のCPUを設計して世に問う」会社のことだったのではないかとぼくは想像している。いや、ぼくは最近になって(ここ10年ぐらいで)計算機に触れ始めたので、実感としては知らないんですけどね。でも外から来た人間だからこそ感じることもあるわけで。
そういう意味で、「価格性能比向上が著しいマイクロプロセッサやストレージといった部品群を大量に並べて」ということと、「全部ゼロから自分たちで作」るということが全然噛み合わない。
「ゼロってどこですか?」という話かもしれない。「フォン・ノイマンさんですか? チャールズ・バベッジさんですか?」。そこまで行かなくても、「CPUぐらいがゼロだろう」というのが、たぶんこれまでの計算機屋さんの感覚なんだよなぁ(あくまで外から来たぼくが見るかぎりw)。
だからたしかに、「それはどうでもいい。そこはゼロじゃない」と言うのなら結構新しいと思いますよ。それこそ本当に、「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社だと言えるかもしれない。でもそれはもう、コンピュータ・メーカーでもないのかもしれないっすね。皮肉とか悪い意味じゃなく。
そういうことを指摘しておくことに価値があるかなぁと思って書きました。大きく間違ってるかもしれないですけど。
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