メッセージ。 - 肯定すべきもの

# 肯定すべきもの

一月前に書いて、保留になっていた文章を載せてみる。
ちょびっとだけ改稿した。

日曜日、会社に行こうと電車に乗っていて、ちょっと
気になるできごとがあった。
ぼくはいつものとおり、ドアの側、車窓から景色が
見える位置に立っていた。
目の前には、小学生ぐらいの男の子と、
そのお父さんらしい親子連れ。

列車が多摩川の橋を渡るころ、男の子が
河川敷を指差してお父さんに何か言ったようだった。
河川敷には、青いビニールシートで作られたいくつもの家。
ホームレスの人たちが住んでいるのだ。
子供がぼそぼそ何か言うと、
お父さんは「お前もあそこに住むか」と返した。
はにかむように笑い、「いやだ」と言う男の子。

ああ、珍しいものを見たなぁと思った。
電車の中とはいえ、公共の場所。そこでそういう話題を
口にするのは憚られる。
人の目を気にするなら、お父さんはもうちょっと気の利いた
返事を返すこともできただろう。
たとえば、「そんなことを言ってはいけない」とか
適当な冗談で返すとか。

でも、彼はそうしなかった。
一瞬のできごとで機転が利かなかったのかもしれない。
周りにあまり人がいないから、「まぁいいか」と思ったのかもしれない。
ただなんとなく、もしかして彼は、家の中にいるときのように
くつろいだ気持ちで返事をしたのではないだろうかという気がする。

ホームレスの人を指して、「そういう風になりたくない」という
意思を示すということ。自分たちの暮らしが肯定すべきもので、
はみ出した人たちの暮らしが否定すべきものであるという価値観を
示すこと。

それは、正しいのか間違っているのかがよく分からない。
もしそれを、ホームレスやその家族の人が聞いていたら嫌な思いを
しただろうと思う。だから、そういうことを言ってはいけない。

そう。言ってはいけないのだろう。でも、心の中でそう思って
しまうすらも許されないのかな? それは間違ってるのかな?
誰もがみな平等で肯定されるべき存在で、区別なく扱うべきなのかな。

そういう風に、人やものを区別しないで扱えればいいなぁと思う
けれども、人間にはそれは難しいような気もする。

たとえば最近、日本人の人たちはワールドカップに熱狂していた
みたいだけど、日本のチームを応援して、それ以外のチームを
応援しないと区別していることは、正しいのか間違っているのか。

もしブラジルの人やほかの国の人たちが目の前にいたら、応援の
仕方は変わってくるんじゃないだろうか。でも、正しいことを
しているのなら、なぜ変える必要があるの? 変えるということは
間違っているということなの? もしそれが間違っているのだと
するならば、すべての応援というものが間違っていることになる
気がする。

ホームレスの人たちの暮らしを、自分たちの暮らしと区別すること。
自分の住んでいる場所を、違う人たちが住んでいる場所と区別すること。
どちらかを好きであり、どちらかを好きでないと色分けすること。

その逆を考えてみる。区別しないってことはどういうことだろう。
なにも好きにならないってことなのかな?
2006-06-29 15:31:53 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

Comment

#

区別を全くしないのは難しいと思う。自分の立ち位置を決めるのに、何かの基準が必要だから。
ただ、こちらとあちらを分ける線は絶対的なものではなく、見方によって変わり得るし、自分で引き直すこともできる、という自覚とか、「あちら側」にいる自分という可能性を想像できることはとても大事だと思う。
2006-06-29 19:56:20 / shiro / Comment: 0 / Trackback: 0

#

コメントありがとうございます。
やはりそう感じられますか……。「立ち位置を決めるために」ということは、他者を知覚しながら自分とは何かを固めていくわけですよね。
その一方で、『「あちら側」にいる自分という可能性を想像できる』というのは、自分とは何かを固めすぎない、意識的にその状態をキープするということですかね。

うーむ。もうちょっと考えてみます。ご意見ありがとうございます。参考になります。
2006-06-29 22:49:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
コメント投稿機能は無効化されています。

Trackback

TrackBack投稿機能は無効化されています。