メッセージ。 - 近代よ、死んでしまうとはなにごとだ
# 近代よ、死んでしまうとはなにごとだ
日本語の話言葉で、主語はほとんど使われない。
「私が」、「あなたが」ということは、会話において意識されない。
それはもともとは、「私」や「あなた」というものが、
「何かを決めている」わけでないという基本的自然観に則ったものだ。
「私が」、「あなたが」、「I Think so」、「I did」、
そういうものじゃない意識の有り様。
「私」の行動は、いま感じているこの感情や感覚は、
私だけが形作っているものではないという感覚。
状況や、歴史的なもの、無数の選択の積み重ね、
人々や動物たち、植物たちの生きた証、大きなコンテキスト。
そういうものが「私」に影響を与え、支配している。
そういうものの存在性に耳を澄ませる。
それは、前近代的だ。東洋的な、あるいはアラブ的な、
アフリカ的な。近代以前の自然観はそういうものだったろう。
西洋思想は、「1つの絶対的な真実や善が存在し、
すべての人間はそれを知覚できる」という
哲学に基づいているという文章を読んだ。
資本主義や、共産主義もその文脈から生まれてきたと。
そのような理想論を最も追究したはずの共産主義は失敗した。
あるいはそもそも、実現しなかった。
それは、共産主義の敗北だったのか?
資本主義が勝ったということなのか?
なんとなく、ぼくは、違うような気がする。
敗北したのは、もしかしたら「近代」なんじゃないだろうか?
「1つの絶対的な真実や善が存在し、すべての人間はそれを知覚できる」と
いう理想論。それこそが敗北したのではないか。
「自覚的であれ」という教えを、
すべての人間が習得できるわけではない。
あるいは、すべての人間は、完全に自覚的な人間であることはない。
エコロジーやインターネットの台頭、ポストモダン(近代の後)という考え方を
見ていると、ぼくにはどうもポストモダンというものが、中世的に感じられてしかたない。
ポストモダンと中世とは、いったいどう違うのか。違いなどないってこと?
「私が」、「あなたが」ということは、会話において意識されない。
それはもともとは、「私」や「あなた」というものが、
「何かを決めている」わけでないという基本的自然観に則ったものだ。
「私が」、「あなたが」、「I Think so」、「I did」、
そういうものじゃない意識の有り様。
「私」の行動は、いま感じているこの感情や感覚は、
私だけが形作っているものではないという感覚。
状況や、歴史的なもの、無数の選択の積み重ね、
人々や動物たち、植物たちの生きた証、大きなコンテキスト。
そういうものが「私」に影響を与え、支配している。
そういうものの存在性に耳を澄ませる。
それは、前近代的だ。東洋的な、あるいはアラブ的な、
アフリカ的な。近代以前の自然観はそういうものだったろう。
西洋思想は、「1つの絶対的な真実や善が存在し、
すべての人間はそれを知覚できる」という
哲学に基づいているという文章を読んだ。
資本主義や、共産主義もその文脈から生まれてきたと。
そのような理想論を最も追究したはずの共産主義は失敗した。
あるいはそもそも、実現しなかった。
それは、共産主義の敗北だったのか?
資本主義が勝ったということなのか?
なんとなく、ぼくは、違うような気がする。
敗北したのは、もしかしたら「近代」なんじゃないだろうか?
「1つの絶対的な真実や善が存在し、すべての人間はそれを知覚できる」と
いう理想論。それこそが敗北したのではないか。
「自覚的であれ」という教えを、
すべての人間が習得できるわけではない。
あるいは、すべての人間は、完全に自覚的な人間であることはない。
エコロジーやインターネットの台頭、ポストモダン(近代の後)という考え方を
見ていると、ぼくにはどうもポストモダンというものが、中世的に感じられてしかたない。
ポストモダンと中世とは、いったいどう違うのか。違いなどないってこと?
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