メッセージ。 - ソフトウェアと「らしさ」の関係
# ソフトウェアと「らしさ」の関係
遅れても困る人はいない , リリースは政治パフォーマンスなんだよ。という話。外野があれこれ言うとややこしくなるから、言わないほうがいいかなぁと思いつつ。まぁ、ぼくは全然当事者じゃないので、もしなにかの参考になればと一言書いてみる。
Rubyのリリースポリシーについては、良くも悪くも「Rubyはああだから」という共通認識があると思う(オープンソースにどっぷりつかっている人の間に)。それは「まつもとさんらしさ」を体現するものであって、いい面も悪い面もあるけど、コアユーザーにとっては予測可能だ。そして、予測可能イコール信頼可能ということで。むしろ世間に迎合してフラフラされるほうが、道具としてのRubyの使い勝手を落とすような気がする。
一方で、そういった「Rubyらしさ」、「まつもとさんらしさ」を漂白してしまうというのも、ある意味有効だろうと予測される。物々交換→貨幣経済というように、媒体の透過性を高めることで、流通コストは激減し広く普及できるようになるだろうから。「らしさ」を排除することで、「コアユーザーにとっては予測可能」だったものが、「一般ユーザーにとって予測可能」になるはず。だから、もっと多くのユーザーに、当たり前のものとして使ってもらえるようになるためには、「らしさ」を排除してしまうというのは1つの手かもしれない。
……ただ、やっぱり現時点で「らしさ」の排除は無用な気がするかな。たとえばLinuxはLinusという人の癖が強いからこそ、あそこまで広まっている。また、とても癖が強くふつうの人には使いにくいPerlという言語も、とくに問題なく受け容れられている。Windowsもまぁ同様で、強いパーソナリティを持っている。これらの事例から、「らしさ」を排除し世間におもねることは、現時点でそれほど有効じゃないんじゃないかな。ソフトウェアというのはまだ十分属人的で、アートの領域を脱しきっていない(それが良いか悪いかは別として)。
「リリースは政治パフォーマンス」であり、政治パフォーマンスが重要だと言うならば、RubyがRubyらしくあり、まつもとさんの色を濃く反映していることは、まさに政治パフォーマンス上プラスに働くはず。海外からの声として「日本で開発されているからか、とても雰囲気が良い。使っていて楽しくなる」と評されたりしているのも象徴的だろう。いまのRubyは、何の色もないいい子ちゃんよりは、ちゃんと色の付いた愛されるキャラクターになりつつあると思う。開発者が集まって求心力を得られているのも、Rubyらしさのゆえだろう。ならば、いま大きな流れを変える必要は、あまりないんじゃないかなぁ。
……って、的外れかもしれないけど、なんかそういう文章になってしまった。このまま置いときます。
Rubyのリリースポリシーについては、良くも悪くも「Rubyはああだから」という共通認識があると思う(オープンソースにどっぷりつかっている人の間に)。それは「まつもとさんらしさ」を体現するものであって、いい面も悪い面もあるけど、コアユーザーにとっては予測可能だ。そして、予測可能イコール信頼可能ということで。むしろ世間に迎合してフラフラされるほうが、道具としてのRubyの使い勝手を落とすような気がする。
一方で、そういった「Rubyらしさ」、「まつもとさんらしさ」を漂白してしまうというのも、ある意味有効だろうと予測される。物々交換→貨幣経済というように、媒体の透過性を高めることで、流通コストは激減し広く普及できるようになるだろうから。「らしさ」を排除することで、「コアユーザーにとっては予測可能」だったものが、「一般ユーザーにとって予測可能」になるはず。だから、もっと多くのユーザーに、当たり前のものとして使ってもらえるようになるためには、「らしさ」を排除してしまうというのは1つの手かもしれない。
……ただ、やっぱり現時点で「らしさ」の排除は無用な気がするかな。たとえばLinuxはLinusという人の癖が強いからこそ、あそこまで広まっている。また、とても癖が強くふつうの人には使いにくいPerlという言語も、とくに問題なく受け容れられている。Windowsもまぁ同様で、強いパーソナリティを持っている。これらの事例から、「らしさ」を排除し世間におもねることは、現時点でそれほど有効じゃないんじゃないかな。ソフトウェアというのはまだ十分属人的で、アートの領域を脱しきっていない(それが良いか悪いかは別として)。
「リリースは政治パフォーマンス」であり、政治パフォーマンスが重要だと言うならば、RubyがRubyらしくあり、まつもとさんの色を濃く反映していることは、まさに政治パフォーマンス上プラスに働くはず。海外からの声として「日本で開発されているからか、とても雰囲気が良い。使っていて楽しくなる」と評されたりしているのも象徴的だろう。いまのRubyは、何の色もないいい子ちゃんよりは、ちゃんと色の付いた愛されるキャラクターになりつつあると思う。開発者が集まって求心力を得られているのも、Rubyらしさのゆえだろう。ならば、いま大きな流れを変える必要は、あまりないんじゃないかなぁ。
……って、的外れかもしれないけど、なんかそういう文章になってしまった。このまま置いときます。
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