メッセージ。 - 面白さについて

# 面白さについて

http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1640 は何がそんなに面白かったのか、面白さというのはなんなのか、ちょっと分かったような気がするので書いてみる。

あのとき、ぼくの中で「リリン」というのは予想外だった。C言語やプログラミングについての話をしているときに、エヴァンゲリオンのキャラクターや世界観について、ぼくは考えない。それらのボキャブラリは、ぼくの頭の中で、いや心の中で相当遠い位置に配置されていて、どちらかのことを考えているときは、もう一方について発想がつながらないのだ。

たぶん、心の中でそれらボキャブラリは、分類・セグメント化され管理されているのだろうと思う。もうちょっと言えば、層状になっているか、2ないし3次元的な空間において、距離を置いて配置されている。

一方でぼくは、誰かの文章を読んだり、誰かの話を聞いたりするときに、続きをある程度予測しながら内容を理解しようとしている。出てくる言葉を心の中の一時領域に配置し、「これについて語ろうとしているな」とか、「この人はこういう風にものごとを考える人なんだな」と思いながら話を聞いている。

# 蛇足ながら、ぼくはこれを一種の追体験であり、自分とは別人格を自分内部にロードするという心理クローニング(コピー)であると考えている。つまり、コミュニケーションとは、他者の人格を自己内部に取り込んでものごとを多面的に見たり、なにかの行為が許されるか否かを判断する基準としているだろうと。

人の話を聞くとき、人は自分との共通点を探したり、自分との相違点を見つけたりして、この世界と自己と他者を理解していくのだ。ところが、ぼくの心の中で、C言語の話題とエヴァンゲリオンの話題はあまりにも遠い。それらのボキャブラリは別セグメントに配置され、相似性という鍵も見出せない状態にある。両者を混在して扱うという発想が、まったくないのだ。

ぼくは、あろはたんのプログラミング話はよく理解できたし(理解できる気がするし)、ボキャブラリの心理内配置についても近いと感じている。また、ジョジョやエヴァンゲリオンといった嗜好についても、ある程度近いものがある。しかし、それらはぼくの中で、あまりにも強固にセグメント化されている。プログラミングの話からエヴァへ突然振られても、ぼくの心の中でボキャブラリスタックが伸びない。

そのどうしようもなさ、放り投げられた感じ、混ぜるな危険的な感じが、面白かった。予想を裏切られてパニックになったというか、心理クローニングをハックされたというか。面白さというのはそういうものであるように思った。
2006-09-14 05:33:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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