メッセージ。 - いまのネットに常識は存在しないっす
# いまのネットに常識は存在しないっす
結局のところ、「これが常識だ」「それは常識ではない」という対立は、両者共に「常識外への不寛容」という点で一致しており程度が同じ。
「夜中のメールは非常識かどうか」という問題が昔あって、この件はいろいろ考えたなぁ。そのとき分かったことの1つは、「ネット上に常識は存在しない」ということ。これは定義から明らかなのだ。
というのも、ネットの歴史は浅い。というかネットにいる多くの人の経験が浅い。せいぜい5〜6年とか10年とかの人がほとんどでしょう。そして、その間にもネットに流通するアプリやコンテンツや人はどんどん変わってきたわけで。
そういった過去を考えれば、2006年現在において、そこにいる人たちの間に、共通認識や常識というものが固まっているはずがない。そんな短時間に、常識などというものは形成されない。ゆえに現在のネットに常識というものは存在しない。
「常識」という言葉を持ち出す人は、「言語感覚が粗雑」というよりは、たぶん世界認識の仕方にクセがあるんだと思うなぁ。それは言語感覚というよりメンタリティの問題な気がする。
「自分の身の周りにあるものが常識である」とすぐ判断してしまう考え方は、現在のネットと相性が悪い。常識という言葉には実は、「どこそこの常識」という「地域性」*1が隠されているのだ。なのにほとんどの人はそこを省略している。たぶん作為的に。その作為こそがメンタリティだ。
そして、そういうメンタリティ・考え方は、「そう思いたいからそう思う」という域を脱していない。その考え方は、あまりにも簡単に現実(現在のネット)とコンフリクトを起こしてしまっている。
「そう思いたいからそう思う」こと自体が悪いと、ぼくは思わない。ただ、「そう思いたいからそう思う」自己を知覚していないならば、つまりわざとやっているのでなければ、現実との摩擦や衝突は大きくなるばかりだろうなぁと思うのだ。
自分が、身の周りという村から出て行かず、現実との接触を少なく抑えることができるのなら、つまり遠く離れた文化圏の人とあまり接触しないならば、まぁ常識を判断基準にすればいい気もする。結局のところ、将来的に、ネットはある程度以上クラスタ化(ムラ化)し、多くの人はムラの中で生きていくだろう。
ただ、それが悪いと言ってるわけじゃない。常識など存在しないけれども、だからといって人間が、常識に基づいた判断を完全に、100%捨てるのは難しいと思う。常識を捨てるということは、観念を捨てることに等しい。それは自己を捨てるということだろうし、主体性を捨てることでもあると思う。仏教で言えば悟りの境地なわけで。それができるのは、異邦人でありシャーマンだろうなぁと思っとるっす。ネットにいる全員が、異邦人やシャーマンである必要はないだろうな、と。
# かなり抽象的になってしまった。こんな説明で分かりますかね?
*1 正確に言えば、地域性だけでなく、時代性や主体性といった要素も隠されている。つまり、いつ誰が、なぜどこで、どのようにといった主観的な要素抜きに常識は説明できない。
Comment
# >「夜中のメールは非...
メールは電話と違って、相手の都合の影響を受けずに、自分の都合だけで出すことができるのが魅力とばかり思っていましたが、最近では着メロのようなメールを受けると音の出るものもあるとなると難しくなりますね。
私の考えでは、着メロを使う使わないは個人の好みで設定できるもので、着信者が自分で望んで選択したことであり、出す人は気にしないでいいんじゃないかなと思ってしまいました。
本題とは外れていますが、ふじさわさんの結論はどのようなものだったか気になります。
# 「夜中のメール」について
ぼく自身、「夜中のメール」については、「受信時に音を出すかどうかは受信者の都合」(設定でどうにでもなる問題)だと思っとりまして、コメントいただいたのとまったく同じように考えています。これは、ある程度ネットや機械に強い人たちの意見なのかもしれません。
逆に、「常識」派というのは、携帯ユーザーが多いんですよね。「携帯電話を目覚まし時計として使っている人も最近多いし、設定をいじるのも面倒臭い。毎晩寝る前に設定を変えるなんてやってられない」という意見なんだと思っています。
ぼく自身は、「常識」派の意見も分からなくはない、という立場です。たしかにぼくも、設定をいじるのは面倒臭いですから。ただし、そこで「常識」という言葉を持ち出すのは、自分らの文化の押し付けになるので、好きではないです。
「常識」という言葉のしんどいところは、それが本当は個人的な意見なのに、「みんながそう言っている」と主体をすり替えて主張してしまうところにあると思います。「自分は嫌なのでやめて」と言えばいいのに、「みんなに迷惑だからやめましょう」と言う人が多い。
双方がそれをやりはじめると、単なるパワーゲーム(数の勝負)になってしまいます。本当にみなが快適に暮らすにはどうすればいいかではなく、本音を隠した単なる勢力争いになるように思うんですよね。
とくに、ネットが普及し価値観も多様化している現在では、「みんなが○○だから」というのは、そう明確に言えないはずで。現代社会は、生活がフクザツになりすぎて、何が正しいのか誰にも分からなくなる傾向にあるんじゃないかなと感じています。
携帯ユーザーとPCユーザーがともに快適に暮らすにはどうすればいいか、ちゃんと話しあわなきゃいけないはずだと。そして、だからこそいまは、「自分はこう感じる」とか「自分はこう考える」と皆で率直に意見を出し合って、舵取りをしていくほうがいいかな、と。
「夜中のメール」の善悪はとりあえず脇に置いておいて、「常識」というパワーゲーム(あるいは単にそういう物事の考え方)については、誰もがもう一度見直す価値はあるんじゃないかな、というのがいまのぼくの結論です。「常識」は、1つじゃなくてもいいんじゃないかな、常識に起点を置く生き方は、しんどいんじゃないかなって。
長くなってすみません。うまく説明できているでしょうか。
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というのを見て、「だから、mixiって歴史が短い割に常識というものが形成されつつあるのかな」なんてことを思いました。
ただ、その場合の常識というのはmixiというコミュニティー内での暗黙の了解みたいなものですけれど。
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というのは、気が付いていませんでした。そういえば確かに、mixiも携帯も、若いユーザーが多そうですよね。あとは、女性ユーザーが多いというのも共通しているのかなぁ……。
こういう考え方は短絡的なのかもしれませんが、若い人や女性は、「常識」を判断基準にしがちなのかもしれません。若い人も女性も、「ルールを守る側」になりがちじゃないですかぁ。「必要なら自分でルールを変えてもいいよ」とは言われていない気がします。
与えられたルールの中で行動することを強いられていて、明文化されたルールや、物事を動かしている仕組みのほうを変更する立場にあまりないんじゃないかなと。そういった背景から、ルールや仕組みには手を触れずに、その内部で快適に過ごすために、マナーや暗黙のルールのような了解事項を作る傾向にあるのかなぁ……なんて。
適当なこと言っちゃいましたが、そんなことを感じました。
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