メッセージ。 - 2つに分けること
# 2つに分けること
ううう。なんか言いたくなるんだよなぁ。
物事を2つのカテゴリーに分けてしまうのは、むしろ科学のほうだと思うのだよなぁ……。たとえば、「万有引力の法則が存在する」と言った場合、存在するかしないかの二者択一的に世界を把握している。それは、デジタルに世界を扱っているということ。2つのカテゴリでなくn個に分けるとしても、nが有限の数であるならば程度問題にすぎない。言葉を用いた表現は、すべてデジタルにあたる。
たとえば、「空が青い」、「海がきれいだ」、「このリンゴはうまい」、「ドーナツとバウムクーヘンは違う」。青いとか、きれいだとか、うまいとか違うとか、そういったものはデジタルだ。本当は、空は単に青いだけじゃない。薄い雲がかかって透き通るようだったり、西と東で色合いが違ったり、迫り来るような高い空だったり、うだるようにユラユラ揺れていたりする。
究極的には、空の青さや美しさというのは、言葉では表現しきれない。この感動を言葉にしても、100%それを誰かに伝えたり、思い出に残したりすることはできない。すべての景色も、感覚も、一期一会。自分自身でさえ、同じ空や絵や音楽を、見たり聞いたりして感じることは、今日と明日で違う。アナログだから。デジタルのような再現性がない。犬や猫や動物たちは、この世界をアナログのまま感じ理解している。本当は人間もそう。
再現性があるというのは、科学の1つの基本だよね。言葉や言語なくして、科学は成り立たない。だから、科学そのものはデジタルの権化だと思う。そして本質的に、言語による表現というものが、二者択一であったり、デジタルであったりすると思うんだよなぁ……。計算機は言語による表現と計算しかできない。でも人間は違う。計算機で人工知能や意識を作り出せないのは、デジタルであることも大きな理由だと思っとるのです。
物事を2つのカテゴリーに分けようとするのは、人間の神経システムではなくて、言葉だったり西洋思想だったりすると思う。犬も猫も、東洋思想も、あなたと私、黒と白、善と悪をことさら2つに分けようとしていない。あなたがうれしいと私もうれしいという自我境界のあいまいさ、食物連鎖が当たり前のものである野生。「thank you」ではなく「有り難う」。
それらは世界をn個に分けていない。物事を2つやn個のカテゴリーに分けているのは、むしろ(西洋)科学のほうだと思うのだよなぁ。
子供が科学で学ぶことの1つは、けっして物事を2つのカテゴリーに分けてはいけないということだ。一見すると、イエスとノー、正と誤に分けなければならない場合であっても。人間の神経システムは、物事を2つのカテゴリーに分けようとする。あなたと私、黒と白、善と悪。これは決定を早くする方法だ。だが科学では、あなたは3つに分類できないか5つはどうかと常に問う。多くのカテゴリーには名前もない。だからこそ難しい。
物事を2つのカテゴリーに分けてしまうのは、むしろ科学のほうだと思うのだよなぁ……。たとえば、「万有引力の法則が存在する」と言った場合、存在するかしないかの二者択一的に世界を把握している。それは、デジタルに世界を扱っているということ。2つのカテゴリでなくn個に分けるとしても、nが有限の数であるならば程度問題にすぎない。言葉を用いた表現は、すべてデジタルにあたる。
たとえば、「空が青い」、「海がきれいだ」、「このリンゴはうまい」、「ドーナツとバウムクーヘンは違う」。青いとか、きれいだとか、うまいとか違うとか、そういったものはデジタルだ。本当は、空は単に青いだけじゃない。薄い雲がかかって透き通るようだったり、西と東で色合いが違ったり、迫り来るような高い空だったり、うだるようにユラユラ揺れていたりする。
究極的には、空の青さや美しさというのは、言葉では表現しきれない。この感動を言葉にしても、100%それを誰かに伝えたり、思い出に残したりすることはできない。すべての景色も、感覚も、一期一会。自分自身でさえ、同じ空や絵や音楽を、見たり聞いたりして感じることは、今日と明日で違う。アナログだから。デジタルのような再現性がない。犬や猫や動物たちは、この世界をアナログのまま感じ理解している。本当は人間もそう。
再現性があるというのは、科学の1つの基本だよね。言葉や言語なくして、科学は成り立たない。だから、科学そのものはデジタルの権化だと思う。そして本質的に、言語による表現というものが、二者択一であったり、デジタルであったりすると思うんだよなぁ……。計算機は言語による表現と計算しかできない。でも人間は違う。計算機で人工知能や意識を作り出せないのは、デジタルであることも大きな理由だと思っとるのです。
物事を2つのカテゴリーに分けようとするのは、人間の神経システムではなくて、言葉だったり西洋思想だったりすると思う。犬も猫も、東洋思想も、あなたと私、黒と白、善と悪をことさら2つに分けようとしていない。あなたがうれしいと私もうれしいという自我境界のあいまいさ、食物連鎖が当たり前のものである野生。「thank you」ではなく「有り難う」。
それらは世界をn個に分けていない。物事を2つやn個のカテゴリーに分けているのは、むしろ(西洋)科学のほうだと思うのだよなぁ。
Comment
# AI 屋としては
究極的には,世界に連続体は存在せず,全ては量子 (= 離散) らしいので,デジタルが駄目っていう良く効く理屈は通らないような気がします.
僕は,単なる分解能の問題だと思いますよ.世界を 2 個に分けるんじゃ,全然近似が足りないけど,4294967295 個 (32 bit 上限) ぐらいに分けて考えたら十分なような気も.
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科学は「万有引力の法則が存在する」と言った場合、存在するかしないかの二者択一的に世界を把握「しない」。万有引力の法則は、世界の現象を、ある程度の蓋然性を持って説明できる、と考える。「ある程度の蓋然性」とはどのくらいか。研究が進めば詳細化されていくが、どこまでいってもある程度の曖昧さは残る。科学は現象の下僕だから(どんなに綺麗な理論でも反する実験結果が出ればひっくり返る)、相手がアナログなら、どこまで突き詰めてもアナログにしかならない。19世紀まではそれでも観測対象と観測者の隔たりは厳然としてあったけれど、20世紀にはそれも怪しくなった。
竹内薫「99.9%は仮説」とか、読んでみたらおもしろいかもしれませんよ。すぐ読めます。
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確かに、東洋思想もデジタルなところがありますね。デジタルへの欲求は、東洋にも西洋にもあるのだと思います。なので、どっちがどうだと割り切って論じるのはある程度危険を伴うとは思っとります。
それと、全ては量子(=離散)というのは、あまり考えていませんでした。それって、信憑性あるんですかね……。うーん。それを考えはじめると、いろいろな可能性を考える余地ができるなぁ……。まぁその前に、ぼくは物理とかちゃんと勉強せにゃならんなぁと思いました。orz
AI屋として、分解能の問題かもしれないと考えるのは理解できます。ぼくも、機械(=離散特性を持つ部品)だけで知性を生み出すことが不可能かどうかは、まだ自信がないところなので。上に書いたことは、まだ考え途中の1つの見方ということでお願いします。
>shiroさん
指摘ありがとうございます。挑戦しがいのある難しい問題です。
カテゴライズしているのが「言葉」というのは、もっともな指摘です。確かに科学は、カテゴライズには直接手を下していません。しかし、科学は言葉を主な道具として使うわけで、言葉の持つ表現力(離散的表現力)以上の説明を提供できないのではないかと思います。
shiroさんの指摘は、科学自身がそのことを説明できていて、その表現力不足を補うために(そのときどきの)蓋然性を高めていくというアナログ(連続的)なアプローチが用意されているというものですよね(ぼくの理解が間違っているかもしれませんが、まぁ一応そうだと解釈しました)。
うーん。確かに、科学を学ぶことでそこまで理解できるならばいいなぁとは思いますが……。普通に科学を学ぶだけで、そのような世界理解に対する姿勢・理念まで共有できるのかなぁと疑問に思う部分もあります。うがった見方かもしれませんが、「科学を学べばいい」というのは、銀の弾丸に近いものを感じてしまうのですよね。
「なぜ?」と。科学を学ぶことで、本当に紛争がなくなるのか。科学を学べば、500年後、1000年後、われわれはどうなるのだろうか。そこに興味があります。とりあえず、「99.9%は仮説」の紹介ありがとうございます。読んでみたいと思います。
# 信憑性というか…
# というか、私は高校物理すらちゃんとやってない人間なので (汗)
現代物理は、もはや形而上学 (人間が知覚認識できない世界の理を考える学問なので、検証不可能) と区別が付かないというか… 偉い人達が、こう考えれば辻褄が合うかもしれない、みたいな、いわば 「それだけ」 の話ですからね。宇宙は 11 次元だ、最小の物質はスーパーストリング (超ひも) だ、とか。
まさしく 99 % は仮説です。現時点で一番精密で説得力と合理性があるというだけ。数学は答えが一つしかなくて絶対確実だから好きだとか、おませで頭が良い中学生は言うかもしれませんが、何でも極限まで突き詰めると限りなく怪しくなるのです。
この、この世には確実なものなど何もない、常に他の可能性も考えられる、より良い合理的な仮説が見つかったら、いつでもそっちに乗り換えるよ、という柔軟な姿勢こそが、「科学的な考え方」というやつだと思います。
そして、世界の人全員がこのように考える力を持ったら、戦争は絶対に無くなります。
しかし、ま、これだけ教育が行き届いているはずの日本でも、そのように考えられる大人は 5 % で、残りの 95 % (僕含む) は、自分の狭い価値観と世界しか見えないカエルなのかもしれない、という現状を考えると、夢想でしかないのかもしれません。
しかし、100 年前より今、今より 1000 年後が確実に良くなって行くならば、可能性はゼロではありませんよね。
大切なのは、真実に向かう意志 (by アバッキオの同僚@JOJO) ということで。
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ただ、人間の想像力はそれを飛び越えることもできます。スティーヴン・キングの短篇「ジョウント」とか。
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