メッセージ。 - ヌーの赤ちゃんの話

# ヌーの赤ちゃんの話

そういえば、先日テレビの「どうぶつ奇想天外」で、サバンナに暮らすヌーの赤ちゃんを紹介していた。

ヌーの赤ちゃんは、生後すぐに立って歩けるようになり、群にしたがって移動しながら餌場を回遊するようになるらしい。ただし、生まれて1か月ほどの赤ちゃんは、草を食べず、母親の乳だけを口にする。

ところが、テレビで紹介されていた赤ちゃんヌーは、大きな川を渡るときに母親からはぐれてしまった。母親を探してサバンナを歩きまわる赤ちゃん。早く母親に会わなければ、体力を消耗して力尽きてしまう。

危険なサバンナを何日も歩き、同じように母親とはぐれた赤ちゃんヌーと友達になったりしながらの旅。だけどやっぱり、母親には会えなかった。力尽きて木陰で息を引き取ろうとしている2頭の赤ちゃんヌー。もうこれでおしまいか……。

そう思ったとき、1頭の赤ちゃんヌーが突然立ち上がり、草を食べはじめた。通常草を食べないはずの赤ちゃんヌーが、草を食べたのだ。そして彼は、群のもとへ向かった。草を食べるということは、一人前のヌーとして生き始めるということ。乳を飲めず力尽きる赤ちゃんがいる一方で、そうやって生きる赤ちゃんもいる。

これを見たのはつい数日前かなぁ。今日ふと気付いたのだけど、この話はカエルの話と相似形をなしている。ヌーの赤ちゃんも、目の前に大量の草がありながら、それを食べられずに生きたり死んだりする。そのとき、生きる赤ちゃんと死ぬ赤ちゃんの違いが何なのかを、ぼくは知りたい。ぼくは、生きる赤ちゃんが好きだし、尊敬する。そういう風になりたいと思う。

じゃあ実際何が彼らの明暗を分けたのだろう。ぼくはずっとずっと、そういうことを考え続けている。そして思うのだ。明暗を分けたのは、科学とかそういうことなのだろうかと。いや、狭義の科学でなくていい。「科学」という言葉が指し示す何かや、科学に含まれるエッセンスがヌーの赤ちゃんを救ったのだろうか。

ぼくは、科学を否定したいわけじゃない。ただ、知りたいのだ。アラン・ケイさんの言う「科学」とは何なのか。赤ちゃんヌーを救ったものは何だったのか。そういうことを、考えている。
2006-09-27 10:55:23 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

Comment

# 文系のあっしが言うのもなんですが

「科学」ってのは、知を検証可能な形で蓄積していく思考形態だと思うんですよ。
だから、我田引水的なスタイルは科学じゃない。どっかの「○○はプラズマだ」「オカルトはすべてウソだ」って人はあからさまに科学じゃないですよね。
これと五十歩百歩というとどうかと思うけど、「ニュートン物理学が正しいから、それに反する実験結果はありえない」というのもまた科学じゃない。
松阪の本居宣長記念館を観たときは「国学も『勝手な思いこみ』とかじゃなくてちゃんと科学してる!」と驚かされました。それに比べると、教科書やら新書をそのまま受け入れている自分がいかに非科学的か、と。ちなみに、そのころからすでに「エセ科学」が存在し、本居宣長らが困惑させられたという展示には思わず笑っちゃいました。
知の蓄積や検証を含まない「気づき」は、やっぱり「科学」と同列に考えてはまずいと思います。
2006-09-27 20:49:39 / Hi-Low-Mix / Comment: 0 / Trackback: 0

#

レイヤが違うような気が。

とりあえず、何も教わらないでも生き延びたヌーの赤ちゃんには、科学は必要無いでしょうねぇ。アラン・ケイの話は、生き延びることが出来なかった大多数の赤ちゃんの方に向いているような気がします。
2006-09-27 22:07:51 / shiro / Comment: 0 / Trackback: 0

# Hi-Low-Mix...

Hi-Low-Mixさん、コメントありがとうございます。

ご指摘ですが、分かります。少し前に内田樹さんが、「若い研究者たちへ」という文章で、似た趣旨のことを書かれていました。少し引用します。

 当然のことながら、学統というのは「知的贈りものの次世代への継承」というダイナミックな歴程そのものだからである。
 自分が知的なリソースの贈り手でありうるのは、自分もまた先行する研究者たちから豊かな贈りものを受けとったからである。
 先行研究に何も負っていないまったくインディペンデントな学術研究などというものは存在しない。
 だから、先行世代からの学恩に対して十分にディセントであること。

ぼくはこれを読んで、感動と言うとアレですけど、うらやましくもあり、くやしくもあり、でもとても清々しい気分になりました。このような先生が学界にいらっしゃるのは、うれしいことだなぁと思いました。(ただ、ぼくは学界には何の由縁もないので、うれしがるのも変なのですけど。)

たしかに、ご指摘のとおりぼくには学統がありません。先生がいないのです。これは、自分で選んだ道であり、自分の資質のゆえでもあります。ぼくは頭が良くないので、学問を生業とすることができないですし、先生とうまくやる自信もなく、またそれをやるモチベーションもないのです。

それは自分でも自覚していて、上記のような文章を書いた後は、とても自己嫌悪に陥ります。文章を読み返していると、「天に唾する行為だ」と、自分でも思えてくるのです。でも、毎回そのように自己嫌悪しながらも、しばらくすればなにかを思い付いてしまって、書きたくなってしまうのですよね……。

ただ、1つ誤解しないでいただきたいのは、ぼくはそれを「これが科学ですよ」と言って提出しているわけではないということです。科学にたてついたり、科学の傘を着て誰かをあざむくつもりはないのです。上記のような文章を読むと、自分でも非常に不遜に感じられ、申し訳ない気にはなりますが……。

まぁ、これまで、「ぼくのやっていることは、科学ではない」と明言していないので、誤解を招くのは確かですね。どっかに書いておかないといけません。本来は、ここに書いていることは、チラシの裏に書いて捨てるべきことがらなのだろうと思います。また、もし読んでくださる方がいるなら、すみませんが「このチラシの裏め」と思いながら読んでいただきたいです。

# ちなみに、文系も一応科学なのではないかなと、ぼくのボキャブラリの中では位置付けられています。
2006-09-27 22:56:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# shiroさんも、コ...

shiroさんも、コメントありがとうございます。

レイヤが違うというのは、本当にそうだと思います。こんな変な方向からコメント入れられても、アラン・ケイさんも酷だろうな、と。ただ、ぼく自身の関心がどうしてもそっち寄り(あえて言えば哲学寄りというか宗教寄りというか)にあって、しかもぼくには、この問題がつながって見えるのです。

あ、それとアラン・ケイさんにも哲学的な雰囲気を感じるので、もしかしてぼくなんかの意見でも参考にしていただけるんじゃないかなと思ったりもするのです(アラン・ケイ本人がこのコメントを見ないとしても、例の記事を読んで関心領域が重なる人の参考ぐらいにはなるかなと)。

あと、死んでしまった大多数の赤ちゃん向けというのは、言われてみればそうなのかなぁという気もしました。なんというか……。イカン。また訳の分からんことを書きそうなので、とりあえずこに書くのはやめときます。m(_ _)m
2006-09-27 23:12:51 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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