メッセージ。 - 遊びの時間
# 遊びの時間
なんというか、ぼくの中では、「自分の書いたものは100%自分のもの」と思っていないところがある。自分の書いたものが好評だったにせよ、悪評だったにせよ、それはぼくだけの功績ではない、という感じで認識している。
たとえば、アラン・ケイさんに意見したちょっと前の文章は、彼の発言があってはじめて書き得た。また、matakimikaさんに触発されて書いた「常識なんてないっす」という文章も、matakimikaさんの書いたものを読んだからこそ「書いてみよう」という気になった。
ぼくはあの2つの文章を書いて楽しかったけれども、それは彼ら先行者の文章があったからこそ書けたものだ。彼らは十分優秀で、感受性が鋭く、共感させる力がある。彼らのその力が、ぼくの頭と心を耕して、ぼくにあの文章を書かせてくれた。彼らのアイデアや感性が素晴らしいからこそ、ぼくも何かに気付き、また「負けないぞ」と何かを書きたくなった。
逆に、つまらない文章というのも毎日いっぱい目にする。共感できないし、「ハッ」とさせられることもないし、クスリと笑うこともない文章。そういったものを見ても、どうにも何も書く気がおきない。「つまらない」と書く気さえおきない。そんなことするのは時間の無駄だと感じてしまう。
だから、どんな内容にせよ、ぼくが何かを書くときは、その文章に触発されたときだ。「つまらない」と評したときでさえ、「つまらない」と書かせるだけの何かを、その文章から受け取っている。「つまらない」とぼくに書かせた人に、内心ぼくは舌を巻く。「やられちゃったな」と、心の中で頭を掻く。
何かを書いているとき、ぼくは彼らと遊んでいるような気分になる。とても楽しいのだ。怒ったり、悲しんでいるときでさえ、ある意味楽しい。本当は、「遊んでいるような気分になる」どころじゃない。それは完全な遊びで、実際にぼくはそれを「遊び」と呼んでいる。どんな喧嘩をしても、とっくみあいで激論を交わしても、別れぎわには「また遊ぼうね」と言いたくなる。
彼らでなくてはならない。彼らでなくては、ぼくを怒らせることも、悲しませることも、喜ばせることもできない。彼らの鋭い感受性や、正義感や、ウィットや、優しさや、せつなさ、そういったものがぼくの心と頭を震わせる。怒る(否定したくなる)というのも、笑う(肯定したくなる)というのも、どちらも励起という意味で同じ。相手からエネルギーを受け取るからこそ、ぼくは励起する。
そうやって文章を書いているので、ぼくがこのサイトに書いて置いているものは、全部みんなで遊びながら作ったものでしかあり得ない。先行して書いてくれた人との遊び、ぼくが書いたものにコメントやリンクで意見を聞かせてくれた人との遊び。また、じっとそこにいて読んでくれている人たちも大事な遊び相手だ。
ぼくはこの遊びを、「自分が楽しいから」という理由でやっているけれども、でもその遊びの結果を文章にしてここに置けているのは、読んでくれている人がいるからだ。ぼくは文章を書くとき、「読んでいる人が分かるように書こう」と思う。そのとき、ぼくの頭の中では、いろんな人と対話しているのだ。
その人たちが、そこにいてくれるから、ぼくは文章を書きとおせる。「あの人はこの表現で分かってくれるかな」とか、「この文章があの人を悲しませないといいな」と思いながら書く。そして、そうやっていろんな人を想像し対話することで、また新たなインスピレーションが湧く。書ける内容が変わってくる。楽しい。自分の手が何かを書いているけれども、自分の力で書いているなんてとんでもない。
そんな感じ。書くことだけじゃないけれどね。
たとえば、アラン・ケイさんに意見したちょっと前の文章は、彼の発言があってはじめて書き得た。また、matakimikaさんに触発されて書いた「常識なんてないっす」という文章も、matakimikaさんの書いたものを読んだからこそ「書いてみよう」という気になった。
ぼくはあの2つの文章を書いて楽しかったけれども、それは彼ら先行者の文章があったからこそ書けたものだ。彼らは十分優秀で、感受性が鋭く、共感させる力がある。彼らのその力が、ぼくの頭と心を耕して、ぼくにあの文章を書かせてくれた。彼らのアイデアや感性が素晴らしいからこそ、ぼくも何かに気付き、また「負けないぞ」と何かを書きたくなった。
逆に、つまらない文章というのも毎日いっぱい目にする。共感できないし、「ハッ」とさせられることもないし、クスリと笑うこともない文章。そういったものを見ても、どうにも何も書く気がおきない。「つまらない」と書く気さえおきない。そんなことするのは時間の無駄だと感じてしまう。
だから、どんな内容にせよ、ぼくが何かを書くときは、その文章に触発されたときだ。「つまらない」と評したときでさえ、「つまらない」と書かせるだけの何かを、その文章から受け取っている。「つまらない」とぼくに書かせた人に、内心ぼくは舌を巻く。「やられちゃったな」と、心の中で頭を掻く。
何かを書いているとき、ぼくは彼らと遊んでいるような気分になる。とても楽しいのだ。怒ったり、悲しんでいるときでさえ、ある意味楽しい。本当は、「遊んでいるような気分になる」どころじゃない。それは完全な遊びで、実際にぼくはそれを「遊び」と呼んでいる。どんな喧嘩をしても、とっくみあいで激論を交わしても、別れぎわには「また遊ぼうね」と言いたくなる。
彼らでなくてはならない。彼らでなくては、ぼくを怒らせることも、悲しませることも、喜ばせることもできない。彼らの鋭い感受性や、正義感や、ウィットや、優しさや、せつなさ、そういったものがぼくの心と頭を震わせる。怒る(否定したくなる)というのも、笑う(肯定したくなる)というのも、どちらも励起という意味で同じ。相手からエネルギーを受け取るからこそ、ぼくは励起する。
そうやって文章を書いているので、ぼくがこのサイトに書いて置いているものは、全部みんなで遊びながら作ったものでしかあり得ない。先行して書いてくれた人との遊び、ぼくが書いたものにコメントやリンクで意見を聞かせてくれた人との遊び。また、じっとそこにいて読んでくれている人たちも大事な遊び相手だ。
ぼくはこの遊びを、「自分が楽しいから」という理由でやっているけれども、でもその遊びの結果を文章にしてここに置けているのは、読んでくれている人がいるからだ。ぼくは文章を書くとき、「読んでいる人が分かるように書こう」と思う。そのとき、ぼくの頭の中では、いろんな人と対話しているのだ。
その人たちが、そこにいてくれるから、ぼくは文章を書きとおせる。「あの人はこの表現で分かってくれるかな」とか、「この文章があの人を悲しませないといいな」と思いながら書く。そして、そうやっていろんな人を想像し対話することで、また新たなインスピレーションが湧く。書ける内容が変わってくる。楽しい。自分の手が何かを書いているけれども、自分の力で書いているなんてとんでもない。
そんな感じ。書くことだけじゃないけれどね。
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