メッセージ。 - 第三者的スタンスを固持する男性について
# 第三者的スタンスを固持する男性について
・ 2006年10月19日 kmizusawa kmizusawa お作法, ジェンダー "頭がいいのはわかった。で、あなたは、そのことについてどう思っているのか" ああ、こう言いたくなる事あるなあ・ 2006年10月18日 aozora21 aozora21 個人, 恋愛『なぜ男性の文章にどこまでも第三者的であろうとする態度が見られるのか?中略失礼?変に個人的な感情を交えず抑制的に書くのがカッコいいという美意識が、どこかにあるのだろうか。』同感(リンク先はむしろ逆)・ 2006年10月18日 watapoco watapoco gender 件のMasaoさんは「どう思っているのか」を結構言うタイプだと思うけど、確かに第三者的スタンスを固持する男性は多い気がします。・ 2006年10月18日 keijis keijis 男女客観性を重視する男の傾向は、一人前になりたいというのと遠くで繋がっている感じがします。かくいう私もずっとそういうパラドックスにとらわれていたから、気がつくとそういう事を言ってしまっていることが多い。
なんとなく男は、自分がどう思っているかなんて、表明することが許されないと思ってるんじゃないかなぁ。自分自身の意見なんて、まわりからは求められていないと考えているフシがあります。自分自身が承認される根拠がないと思っている。でも承認はされたい。承認は必要だ。だから承認されるために、有用な機能性(体が強いことや頭がいいこと、果ては社会的権威やお金まで)を身に着けようという圧力を内外から受けている気がします。
逆にね。女性というのは、自分で自分を承認する、永久機関のような器官が備わっているんじゃないかと、最近は思っています。フロイトとは逆の感じ。女性というのは、とくに女性的な女性というのは、自分が「手に持っている」機能をあまり気にしていないんじゃないかなぁと。自分がそこに存在を許される根拠について、男ほど気にしていないフシがある。「ここにいてもいいんだ」って、彼女らはハナから思ってる。
それは別に悪いことじゃなくてね。たとえば、子供を育てるうえでは、そういう器官は有効に働くと思うのです。ある種の母親は子供を無条件に愛しますから。子供という、実効的な機能をほとんど持たない、悪く言ったら足手まといの存在を、理由なく愛せる。そういう母親は、子供の機能を愛しているわけじゃない。子供に未来があるからとか、将来役立つからとかでさえない。なんの理由もなく、「可愛いから」とか「自分の子だから」とか、トートロジーの根源近くで子供を愛せる。そういうところはある気がします。
# 地雷を踏まないか心配だなぁ……。
Comment
# こんなこと言うとオトコノヒトに怒られそう。
たしかに音楽でも映画でも本でもアニメでもなんでも、男のひとが書いた意見・評論って、?ナニナニがコレコレなのは如何なものか??とかよく見かける気がします。?え、だからそれ、アナタはどう思ってんのよ??と思うことよくあります。否定したいなら否定すればいいのに、否定して間違ってたらカッコワルイと思ってるんでしょうか?自分の意見ちゃんと言わないほうがよっとぽどカッコワ…
あとね。男性の評論系のブログを読むたびに私が感じてるのは?男のひとは『なにかを褒めると自分の価値が下がる』思ってるんじゃないか??てこと。批判しているならともかく、褒めるときに素直に?おもしろかった??よかった?って書かないのはなんで?
# や、怒らないんじゃないかなぁ。
要するに男は、根拠のない意見や感想や理屈を言うことに、不安を感じるんじゃないかなと思う。「おもしろかった」とか「よかった」と言うとき、暗黙の前提に「自分は」というのが含まれると思うんだよね。「自分はおもしろかった」とか、「自分はよかった」とか。
で、男にとっては、この「自分」というのに自信がない。「自分はおもしろかった」、「自分はよかったと感じた」と表現して、「だから何?」と返されたらどうしようって。「あなたがよかったと感じたとして、客観的にそれは良いの? 悪いの?」、「その意見はどれくらいの価値があるの?」と言われたら困っちゃうなーと。
女性ならここで、「客観とか知らない。良かったから良かったの!」、「私はそう思ったの!」で終わらせられる気がするんだ。「そう思うからそう言う。そう言いたいからそう言う」が許されてる感じ。で、じゃあそうだとして、「許してるのは誰?」と探してみる。すると許してるのはその女性自身だと思うんだよね。
一方で男性は、自分で自分が許せないと感じる傾向があるんじゃないかな、と。自分の外から、許してもらったり、根拠を引っ張ってきたりしないと安心できないの。自分自身に価値があるんじゃなくて、自分の持ち物に価値があるという基準だね。逆に女性は、自分の持ち物じゃなくて、自分の内に価値があると考えることができているんじゃないかなという気がする。
その延長線上で、あるコンテンツを褒めるときに「おもしろかった」、「よかった」とだけ書くことに、男は不安を感じるのだろうと。「おもしろかった」、「よかった」だけ書いても、「こうやって自分が書いたものは役に立つのだろうか?」と自問してしまう。「根拠も添えられていない一言だけでは、信憑性ゼロだ」、「役に立たないものをここに置いていいんだろうか」って。
女の人は、そういうこと思わないでしょ?(違ってたらごめんなさいごめんなさい)
女の人は、思ったことは、思ったときにもう口に出てる気がする。また、価値とか根拠とかは、あんまり気にしていない気がする。
かなぁと、思いますた。これでお返事になってるかなぁ? 「如何なものか?」と「なにかを褒めると自分の価値が下がる」については、ぼくにはよく分からりませんでした。自分はあまりそういう表現をしていないつもりなので。もし「してるよ」ということであれば、具体的にどこかを教えてもらえれば、それを元に考えてみますー。
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男のひとの言い分はわかったけど、しかもなんか男のひとが気の毒になってきちゃったけど、読書感想文の第一声が「おもちろかったー!」の私が、自分の意見言っていいのかどうかわかんなくなってきた。
ので、短く。
「では、その第三者的スタンスで言われる意見はいったい誰のためのものなのか?」
「信憑性も根拠も一般論もどうでもいいから、私は『あなたの意見』が聞きたいのだ。」
ごめんなさい、自分とこでなんか書くかも。
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「地雷踏んでも自爆しても」って……まぁ確かに(笑)。
あのねぇ。これはたぶん、男女でパーソナルスペースの形が違うんだと思うな。実際男もね。二人っきりのシチュエーションだと、そういうコミュニケーションに応じられると思う。たとえば、メールで会話しているときに、相手が「あなたの意見を聞きたい」って言ってくれるなら、自分の意見をありのまま言えると思う。
(ただし、この切り替えがうまくできない人もいます。そういう不器用な、男脳傾向の強い人は、男女間のコミュニケーションが下手だったりするのだろうなと思います)
でも、ブログとか公開空間上での意見交換は、二人っきりのシチュエーションじゃないからね。どうしても、自分の意見ではなくて自分の機能から導き出される意見のほうを、俎上に乗せてしまう男の人が多いんじゃないかなぁ。
それは、何も不思議なことではなくてね。女性が「わたしの感じたことを言う」のと同じだけ、男性は「自分の機能で見解を述べる」のだと思う。その間には男女の壁や、社会通念の壁があるわけでさ。どちらか一方が、「そういうやり方は面白くないから変えたらどう?」と言っても、変えられない。
それを変えてほしければ、壁を乗り越えてパーソナル空間を共有し、くつろげるレベルまで相互承認しなければいけないはずなんだ。つまり、二人っきりの空間にあっても、お互いに苦痛じゃないというレベルになれれば、「あなたの意見」は引き出せると思う。
だいぶ抽象的になってしまったけど、そんな風にぼくは感じています。伝わるかなぁ?
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んー。上に書いたような感じ方には、個人差もあるからね。また、ああいう風に考えてしまうのは、つらいだけじゃないから。一緒にしたら怒られるかもしれないけど、女性の生理や出産と似てるかも。重い人もいれば軽い人もいる。また、つらいだけじゃなくて、それが楽しいと感じることもある。
だから、気の毒に思う必要は、ないと思います。や、思ってもいいけど。なんていうのかなぁ。女は女でしんどいし、男は男でしんどいよねーみたいな。でもま、それぞれしんどい面もあれば楽しい面もあるし、突き詰めて言えば業っすね。
# 続・第三者的スタンスを固持する男性について
……たとえばですね。女の人は傾向として、「守ってほしい」と思ってしまう部分が心の中にあると思うんです。白馬の王子様とか、ああいうやつですね。で、「守ってほしい」と思ってしまうときがあるという人に質問なんですけど。そういう「守ってほしい」っていう感じは、社会通念上自分に生まれた感覚だと思われるでしょうか? それとも、生理的なものだと思われるでしょうか? 先天的なものと感じるか、後天的なものと感じるかと聞いてもいいかもしれません。
なんとなくですけど、両方あるんじゃないかという気がします。つまり、生理的に「守ってほしい」という欲求のようなものがあるし、社会通念上(後天的な環境によって)そう考えるのが自然なような気がすると。で、まぁそう感じると仮定して話を進めますと、実は男にも同じような感じがあります。ただし、ベクトルはちょっと違っていて、男は「守ってほしい」ではなくて、「守ってあげたい」と感じてしまうのです。
でもですね。守ってあげるには、体が強くなくてはいけません。頭が良くなくてはなりません。お金を持っている必要があるかもしれません。そのほか、いろいろ必要でしょう。でもとにかく、なにか役に立つ機能が必要です。ただそこにいて、好き勝手なことを言っていればいいというものではないと感じてしまいます。「守ってあげたい」という生理的欲求が、無意識的に働いて、機能性にあこがれを持ってしまうとしたらどうでしょう?
そういう観点で見れば、「第三者的スタンス」というのは、機能性に対する純粋な思いであり、引いては「守ってあげたい」という気持ちの結晶であると考えられます。第三者的スタンスをとってしまうというのは、ある種の男にとっては、生理的にも社会通念上も、楽だし自然なことのように感じられるんですね。逆に、「根拠なんてなくてもいいから、思ったことを言え」と言われたら、とまどってしまいます。それは必ずしも「守ってあげたい」という欲求を満たさない。むしろ、社会に波紋を投げかけて、守るべきものを危険にさらすかもしれない。
そういう感じが、男の無意識を支配しているとしたらどうでしょう? 「根拠なんてなくてもいいから、思ったことを言え」と言われて、男性が困ってしまうのも理解できますよね。
……なんとなくですけど、逆にそういうことを言いたくなるのは、母性をルーツにしているかもしれないなぁと思いました。そういう主張を女性がするとき、「機能なんてなくてもいいから、あなたの好きなようにしなさい」という、母性的な欲求があるんじゃないかなって。あるいは、男をもてあそぶ悪戯心のようなものが、あるのかもしれませんけど。
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