メッセージ。 - 「だまされたと思って」
# 「だまされたと思って」
子供のころからそうなんだけけど、「だまされたと思って○○しろ」の意味が分からないんだよなぁ……。だまされたと思ったら、腹が立ってそれ以上その人の言うことを聞かないっすよ。
それともアレなのかなぁ。「催眠術にかかったように、何も考えずに○○してみろ」ということなのかなぁ。言いたいことは分かるけど、説得力がないしなぁ。「悪いことは言わないから」のほうがまだマシというかそれでも嫌だけど。
「だまされたと思って」と言われても、「じゃあやってみようかな」と思えなさすぎる。全然心を動かされないいんだよなぁ。なんなんだろう。
それともアレなのかなぁ。「催眠術にかかったように、何も考えずに○○してみろ」ということなのかなぁ。言いたいことは分かるけど、説得力がないしなぁ。「悪いことは言わないから」のほうがまだマシというかそれでも嫌だけど。
「だまされたと思って」と言われても、「じゃあやってみようかな」と思えなさすぎる。全然心を動かされないいんだよなぁ。なんなんだろう。
Comment
# 「だまされたと思って...
「いいから素直に○○しろ」ではきっともっと頑なになる。疑われている・信じられていない自分に失望もしており、なかばやけくそでもあるし、懇願でもある。
ただ、本当にだます目的でこれを使うヒトもいますし、最近はむしろその方が多いと思いますけれど。
まぁだまされたとでも思って、一度語源を探してみると良いんじゃないかと思います。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=946936
# あーなるほど。つまり...
まず前提として、「だまされたつもりで○○しろ」というのは、本来「だまされたと思ってくれていいから○○しろ」であると仮定して。
「だまされたと思ってくれていい」というのは、「つらいけど。本当はつらいけど、そう思ってくれていい」ということですよね。
たとえば、「たとえ命を失おうとも君を守る」という言葉は、「命は大事です☆ でも、君のほうがもーっと大事です☆」という意味を含んでいて、それと構図が同じであると。一番大事なものを見せてみて、それを「失ってもいい」と言いきることで、もっと大事なものを指すわけですね。
命は大事→でも命失ってもいい→君命よりもっと大事
だまされたと思われるのはつらい→でもだまされたと思われてもいい→○○してくれるのがもっと大事
って感じですか。自分が命を大事に思っていればいるほど、「それよりもっと大事な君」に重みが出ると。同じように「だまされたと思われるのはつらい」と思っていればいるほど、「○○してほしい」に重みがでると。
結局、「だまされたと思ってくれていいから○○しろ」という言説自体が、「だまされたと思われるのが最もつらい」→「あなたをだますはずなんてない」という回路になっていて、「だから○○してほしい」を補強しているのかな?
#
それより、
なぜそう思う個人になったのかを分析していくのを見るほうが面白いので頑張ってください(笑)
# 信頼関係がすでにあるという前提なんでしょうな
余談ですが、ジョブズがウォズに会社設立を持ちかけたとき
「一度ぐらい失敗したって良いだろう。それより、『オレは一度会社を立ち上げたことがあるんだぜ』って言えるほうがイカスぜ」
と言ったそうですが、これも「だまされたと思って」の部類なのかな?
# 聞く側が既に全幅の信...
まぁ言う側もきちんと信頼関係を構築出来ていない状況なわけですから、強くは言えない。日頃もぅ少し努力していたほうが良かったりする(笑)
#
AsOさんご所望の「なぜそう思う個人になったのか」ですが、この件に関しては、(ぼくが特殊なのではなくて)「だまされたと思って」という言い回しが難しすぎるように思います。やっぱり第一に、最近ではそういう言い回しをほとんど聞かないですから。
たとえば、「ありがとう」は本来「有り難う」ですが、語源を知らなくても日本人なら「ありがとう」の意味が分かります。それは「ありがとう」と言う人、言われる人を長いあいだ目撃してきて、体で理解しているからですよね。
語源を知らなくても、ちゃんと各人は「有り難う」のニュアンスまで理解しているとぼくは思っています。英語で「ありがとう」は「Thank you」でしょうけど、ニュアンスやメンタルな意味では違うものですよね。「すみません」は「I'm sorry」や「Excuse me」だと習いますけど、やっぱりそれぞれ使っていい場面は異なるわけで、それと同じように「ありがとう」と「Thank you」は異なると思うのです。
こういった流れから、言葉は言葉そのものだけで意味を持つわけじゃなくて、その背後にある時間や暮らしを含んでこそ意味をなす、体に染みついたものだとぼくは考えています。
それでですね。「だまされたと思って」という言葉にも、それなりの「時間や暮らし」が背景にあると思うのです。ただ最近は、そういう言い回しを聞かなさすぎて、その言葉じたいが生命力を失いつつあるんじゃないかなーと。少なくともぼくは、物心つくまでのあいだに、その言葉をあまり聞いたことがなくって、その言葉を腑に落とすことがなかったように感じます。
まぁそもそも、「だまされたと思って」という表現はフクザツすぎると思いますよ。「だまされたと思って」が「だまされたと思ってくれていいから(本当は嫌だけど)」を導き出すだけでもハードルが高すぎです(笑)。
ましてや「私にとって信じてもらえないのがどれほどつらいか」というのは、伝えたり伝わったりするのが難しい。「命を失っても」という言葉の裏にある「命は大事」という価値観の自明さが「春の陽射しの心地良さ」だとすれば、「信じてもらえないのがつらい」は「六甲おろしの冷たさ」みたいなものだと思います。後者は局所的すぎて、うまくついていけない。
ぼくは、Hi-Low-Mixさんが挙げられたような、「一度ぐらい失敗したって良いだろう。それより、『オレは一度会社を立ち上げたことがあるんだぜ』って言えるほうがイカスぜ」は、とてもかっこいいなと思います。これは、「どっちにせよお前にとって良いことだし、これからオレも一緒に飛ぶぜ」みたいなニュアンスが感じられます。「お前が飛ぶんなら、オレも飛ぶしかないだろう」と思わされます。「春の陽射しの心地良さ」に似たものがあるんでないかと。
一方で、「だまされたと思ってくれていいから」というのは、「○○してくれないと(私は)悲しい。(だから○○してくれ)」というふうに、自分の悲しさやつらさを人質にとるメンタルばかりが感じられてしまいます。「だまされたと思って」という言葉自体、ちょっと端折りすぎで、そういう「ついて行けなさ」を感じてしまうのですよね。
ってな感じで書いてみました。自分勝手な意見かもしれないですけど。すんまそん。
あ、あと、「だまされたと思って」が本来「だまされたと思ってくれていいから」だというのは、まだ仮説でしかないと思っとります。いろんな人の意見を見ていると、「こんな風なニュアンスだと思ってた」とかなりバラつきがありまして、それぞれの意見が、それぞれなりに正しいように感じるのですよね。
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