メッセージ。 -

#

AsOさん、Hi-Low-Mixさん、どうもどうもです。

AsOさんご所望の「なぜそう思う個人になったのか」ですが、この件に関しては、(ぼくが特殊なのではなくて)「だまされたと思って」という言い回しが難しすぎるように思います。やっぱり第一に、最近ではそういう言い回しをほとんど聞かないですから。

たとえば、「ありがとう」は本来「有り難う」ですが、語源を知らなくても日本人なら「ありがとう」の意味が分かります。それは「ありがとう」と言う人、言われる人を長いあいだ目撃してきて、体で理解しているからですよね。

語源を知らなくても、ちゃんと各人は「有り難う」のニュアンスまで理解しているとぼくは思っています。英語で「ありがとう」は「Thank you」でしょうけど、ニュアンスやメンタルな意味では違うものですよね。「すみません」は「I'm sorry」や「Excuse me」だと習いますけど、やっぱりそれぞれ使っていい場面は異なるわけで、それと同じように「ありがとう」と「Thank you」は異なると思うのです。

こういった流れから、言葉は言葉そのものだけで意味を持つわけじゃなくて、その背後にある時間や暮らしを含んでこそ意味をなす、体に染みついたものだとぼくは考えています。

それでですね。「だまされたと思って」という言葉にも、それなりの「時間や暮らし」が背景にあると思うのです。ただ最近は、そういう言い回しを聞かなさすぎて、その言葉じたいが生命力を失いつつあるんじゃないかなーと。少なくともぼくは、物心つくまでのあいだに、その言葉をあまり聞いたことがなくって、その言葉を腑に落とすことがなかったように感じます。

まぁそもそも、「だまされたと思って」という表現はフクザツすぎると思いますよ。「だまされたと思って」が「だまされたと思ってくれていいから(本当は嫌だけど)」を導き出すだけでもハードルが高すぎです(笑)。

ましてや「私にとって信じてもらえないのがどれほどつらいか」というのは、伝えたり伝わったりするのが難しい。「命を失っても」という言葉の裏にある「命は大事」という価値観の自明さが「春の陽射しの心地良さ」だとすれば、「信じてもらえないのがつらい」は「六甲おろしの冷たさ」みたいなものだと思います。後者は局所的すぎて、うまくついていけない。


ぼくは、Hi-Low-Mixさんが挙げられたような、「一度ぐらい失敗したって良いだろう。それより、『オレは一度会社を立ち上げたことがあるんだぜ』って言えるほうがイカスぜ」は、とてもかっこいいなと思います。これは、「どっちにせよお前にとって良いことだし、これからオレも一緒に飛ぶぜ」みたいなニュアンスが感じられます。「お前が飛ぶんなら、オレも飛ぶしかないだろう」と思わされます。「春の陽射しの心地良さ」に似たものがあるんでないかと。

一方で、「だまされたと思ってくれていいから」というのは、「○○してくれないと(私は)悲しい。(だから○○してくれ)」というふうに、自分の悲しさやつらさを人質にとるメンタルばかりが感じられてしまいます。「だまされたと思って」という言葉自体、ちょっと端折りすぎで、そういう「ついて行けなさ」を感じてしまうのですよね。

ってな感じで書いてみました。自分勝手な意見かもしれないですけど。すんまそん。


あ、あと、「だまされたと思って」が本来「だまされたと思ってくれていいから」だというのは、まだ仮説でしかないと思っとります。いろんな人の意見を見ていると、「こんな風なニュアンスだと思ってた」とかなりバラつきがありまして、それぞれの意見が、それぞれなりに正しいように感じるのですよね。
2006-10-29 22:08:32 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

Comment

コメント投稿機能は無効化されています。

Trackback

TrackBack投稿機能は無効化されています。