メッセージ。 - 「知らない言葉」からつらつらと

# 「知らない言葉」からつらつらと

うー。チラシの裏。

原稿を作るとき、ぼくが気になるのは「知らない言葉がないかどうか」です。技術文書なんかはとくにそうですけど、専門用語が頻出して、門外漢にとっては読むのが大変なんですよね。

ある一定以上、知らない語句が文章に含まれていると、人はその文章を理解できなく(読む気力がなく)なるように思っています。また、読者が知らないだろう言葉を使うときは、まず定義の説明があって、そのあとその言葉を文章の中で使うべきだと思っています。(逆に言えば、そうなっていない文章が多いです。)

そのほか、あまりにもバズワードが多い文章や、「こんな言い回し、どこの誰がするんだ」という文章も、非常に読みにくいし、「読者に分かってもらおうという意思があるのかな?」と憤りさえ感じてしまうことがあります。

言語感覚にクセがある人っているので、それはそれでしょうがないのですが、本人のためにも、周りのためにもならないなぁと思いながら校正します。また、「読者が知らない(かもしれない)言葉」に対して鈍感な態度を取る人も、「もうちょっと頑張ってくれよぅー」と思いながら校正しています。

そういう文章をいただいた場合、単に文言を変更するだけでなく、前後の段落を入れ替えたり、コラムを追加したり、ブロックレベルで変更しなければいけないことも多いんですよね。もうこうなると、校正か推敲か分からないです。

校正と推敲の境界は本当にあいまいで、多くのケースで編集者が実際にやるのは、校正ではなく推敲になってしまっていると思います。そのこと自体が、良いとか悪いとかは検証の余地があるとは思いますが、とりあえず直近の問題として、自分の文章に手を入れられるのが嫌なら、自分でよく推敲したほうがいいと思うんですよね。

編集者も、やりたくて推敲をしているわけじゃないので。いや、一部にはやりたくてやっているような、人格や技術やセンスに問題のある編集者もいるとは思いますけど。

技術者もそうですけど、編集者も職人的な技を要求されるところが多いです。また、デザインセンス(工業デザインにおけるセンス)のようなものを求められる仕事です。

たとえば、高度な技術で作られたソフトウェアが実際に「デザインに優れたソフトウェア」かというと、そうではないわけで。ソフトウェアの使い勝手が良かったり、メンテナンスしやすかったりすることと、高度な技術が組み込まれているかどうかは、純粋に正比例するわけではないと思うのですよね。

あー脱線しましたけど。言いたかったのは、能力やセンスのない編集者にあたる危険というのもありますねということで。運不運も大きくて一概には言えない。ただ、なんていうんですかねぇ。チームでやるわけですから、お互いの優れた能力を使いあって、結果的に良いものを作りたいと、ぼくは思います。

相手の優れた能力を、ぼくは見くびることはしたくない。チームの構成員には、悪いところもあるけれども、とても優れたところもある。その優れたところは、自分にはないもので、ぜひ使わせてもらいたい。

ぼくが問題を指摘するのは、別に怒っているわけじゃなくて、否定したいわけじゃなくて、「いいところがある」、「この原石には磨く価値がある」と思うからこそ、頑張っているつもりだったりします。まぁ、自分で自分のことを頑張っているなんていうこと自体が、救いようのないアホなんですけど。

なんつーのかなぁ。チームを運営するというのは難しいなぁと。こんなところに書いてないで、直接相手に言えばいいんですけど。でも、なんかそれも違うかなぁという気もするんですよね。言わなきゃ分からないやつには言っても分からないじゃないけど、言わなきゃ分かってもらえないなら、自分のやっていることがまずい可能性もあるわけで。

言葉で発するメッセージと、行動で発するメッセージに齟齬があるのなら、それはよくない状態です。体が右を向いている状態で、「ぼくは左へ行こうと思います」って言うことは良い結果を生まない。ぼくの体が実際に右を向いているつもりでも、相手からそう見えていないのでは、何かどこか解決すべき問題が残っている。まーいつも、そういう状態と戦っております。
2006-10-31 13:37:36 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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