・悪人が管理しようとするからといって、そこに正義がないとは言い切れない。
悪の行為が善の結果を生むこともあるし、その逆もある。 (ただこれは、『動機の善悪』より『結果の善悪』を重視する立場なので、すべての方に同意いただけるとは思えない)
・「自ずとなる」のが理想。 ただしそれは、「自ずとなるように管理した」結果かもしれない。 ・人は善悪を含む者でしかないから、「法」や「理」をもって自らを含む世界を管理することにしたんじゃないかと。 不完全な者たちが作る「法」「理」はやはり不完全な管理でしかないけど、それ以外のやり方よりは割とましな気がする。
好きな言葉は「罪を憎んで人を憎まず」。座右の銘は「例外のないルールはない」。日々感じたことを徒然に書いていきます。チラシの裏っすね。
# 一度書いた日記をあとで勝手に更新しています。細かいところが後から後から気になっちゃう質なんです。論旨は変えてないつもりなので、ご容赦くださいませ。
yoshiharu.fujisawa at gmail.com
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# 子供みたいなツッコミします
すべての人がその双方を持っているし、Aにとっての善がBにとっての悪にもなりえるから。
・悪人が管理しようとするからといって、そこに正義がないとは言い切れない。
悪の行為が善の結果を生むこともあるし、その逆もある。
(ただこれは、『動機の善悪』より『結果の善悪』を重視する立場なので、すべての方に同意いただけるとは思えない)
・「自ずとなる」のが理想。
ただしそれは、「自ずとなるように管理した」結果かもしれない。
・人は善悪を含む者でしかないから、「法」や「理」をもって自らを含む世界を管理することにしたんじゃないかと。
不完全な者たちが作る「法」「理」はやはり不完全な管理でしかないけど、それ以外のやり方よりは割とましな気がする。
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これがすごく興味深いです。問題は、「正義とは何か」だと思うんですよね。それが人によって違うのだろうし、違い方が興味深いなと。
そうですね。「善意でやったんだからいいじゃないか」という意見には、ぼくは同意できません。でも一方で、「結果が善なんだからいいじゃないか」というのも、好きじゃないんです。
関連するか分からないですけど、過失の罪というのに、ぼくは前から疑問を持っていまして。たとえば、過失で他者に不都合を与えしまった場合、加害者はどれほどの罪を負わねばならないのか、とか。
「過失はNG」という価値観は分かるのですけど、一方で人はみな過失をします。過失は許されざるものなのかというと、そうではないと思うのですよね。未知の問題に挑戦したら、そこには必ず過失のリスクがある。あー思い付きで書きましたが、長くなりそうなので、また別の機会に書きます。
そうですねぇ……。難しく興味深い問題です。ふと思うのですけど、「やり方」というのはまた、広義の管理だと思うのですよね。どちらもoperationですから。だから、比べるべきは、「完全なアナーキズムvs.管理する社会」と「それぞれの管理手法の利点と問題点」になるのかなーと。社会学では、こういうことを研究するのでしょうねぇ(遠い目)。
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