メッセージ。 - いつもの過激発言

# いつもの過激発言

人間ってのは基本的に、猿なんですよ。猿から毛が抜けたものでしかない。

だからね。あまりに難しいことをさせようとしたり、ストレスをかけたりしたらパニックを起こす。

そこを忘れてはいけない。「猿は死ね」とか「もっと高度な生活に対応しろ。ストレスに耐えろ」と言っても何の解決にもならない。そんなことは現実問題として不可能なんだから。不可能なことを「やれ」と言うのは、単に猿のストレスを増やすだけ。

そうやって、猿により大きなストレスをかけたり、上から押さえつけようとしたら、猿は暴走する。それは、自分にとっても、相手の猿にとっても不幸だよね。ときどき猿が、悪いことをしたり、馬鹿なことをしたりするのは自然なこと。猿だって、ストレスで苦しいんだよ。自分が苦しいのと同じ。

でも、苦しいからといって猿は、簡単にほかの猿を殺すということまでしない。ストレスを受けた猿は、他の猿にいたずらをしたり、周りのものにあたり散らして暴れることはある。だけど、そのレベルと、ほかの猿を殺すというレベルの間には大きなへだたりがある。

猿がなにか悪いことをしたとき。「死ね」と言ったり、「ちゃんとルールに従え」と言ったりしても、何も変わらない。そうやって、木で鼻をくくったような接し方をしているほうが、猿にストレスを加えるんだ。そうやってストレスを加え続けるから、ついに猿は猿殺しをしてしまう。

あなただってそうでしょう? 苦しいとき、つらいとき、「死んでしまえば苦しみはなくなる」とか、「ルールに従って相手を裁判所に告訴すればいい」と言われても、困るでしょう? そういうことを求めているわけじゃない。そういうことが欲しいわけじゃない。それは、みんな同じ。ストレスに苦しんでいる猿に向かって、より強くストレスをかけてはいけない。


……あとね。そもそもという話をすると、猿がすることに対して、いちいち腹を立てるのは、やめたほうがいい。猿に悪気はないし、彼らはもともと難しいルールを守れないんだから。

野生公園なんかに行って、猿を見ていると、ときどき彼らと目が合う。そうすると、彼らは襲いかからんばかりに激怒する。猿は、ほかの猿と目を合わることを、ルール違反だとか、重大な罪のように考えているらしい。でもね。人間にとってそれは不可解だ。彼らと目が合ったといって、なんで人間であるぼくらが怒られにゃならんのだ。何か勘違いが起こっている。問題なんかどこにも、何もないのに、いさかいが起ころうとしている。

何が言いたいのって? つまり、向こう(人間、あるいは猿)が何かをしてきたからといって、我々(猿、あるいは人間)にとって、それがマナーに違反しようとするものであったり、攻撃の意思を示すものであるとは言えないってこと。向こうが何かをしてきたとき、いちいち相手に付き合って、怒ったり泣いたりしてあげる必要はないんだよ。そうやって、相手の土俵に乗ってしまったら、馬鹿をみたり損をするのは自分のほうなんだよ。

相手が自分を傷付けようとしたり、汚してきたときに、それを怖いとか恥ずかしいとか思う必要はない。それは往々にして、プロトコルミスマッチ以上のものではないんだから。相手を指して「あいつは猿だ、猿だ。猿は嫌いだから死ね」と言うのは、人間のやるべきことじゃない。猿のことを気にするのは、人間ではなく猿のやること。猿なんかのことは、放っておいてやればいいんだよ。猿に悪気はないし、あなたが適切に振る舞えば、それ以上のことはしてこないから。

だからね、お嬢ちゃん。あなたは怒る必要はない。悲しむ必要もない。あなたは何も汚れていないし、何も悪いことをしていない。そのことを、ちゃんと分かっている。分かっている人がいる。だから、そんなことでいつまでもくよくよして泣くのはやめてほしいな。
2007-01-19 10:52:12 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

Comment

# 相手の土俵に乗らない?

相手の土俵に乗らないことによって避けられる問題は、おっしゃるとおりたしかにあります。
ですが、ちと2点気になります。
・相手がこちらの生殺与奪を自由に出来る立場にいる場合、「土俵に乗らない」という選択は事実上不可能ではないでしょうか?
・「土俵に乗らない」というのは対話を拒む姿勢ともなりませんか?
2007-01-19 21:29:30 / Hi-Low-Mix / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「土俵を意識する」という感じですかね

Hi-Low-Mixさんの懸念は分かります。確かにそのとおりで、相手の土俵に乗らないことが、常にベストな戦略というわけではありません。場合によっては、相手の土俵にあえて乗るという手もあると思います。ただ、あえて乗ったほうが良いケースは少ないと考えます。次のような感じです。

 ・相手がこちらの生殺与奪を自由に出来る立場にいる場合、「土俵に乗らない」という選択は事実上不可能ではないでしょうか?

「相手がこちらの生殺与奪を自由に出来る立場にいる」というのと、実際に「相手がこちらを殺そうとする」の間には、大きな距離があると思うんですよね。で、まだ前者の状況にしかないのに、相手の土俵に乗るのは危険だと思うのです。

一般に人間は、「こうするしかない」、「こうに違いない」と思いがちなんですよね。人狼BBSなんかをやってると痛感しますけど、「こうに違いない」というのは間違いであることが多いです。人間は、「こうに違いない」と思って、自ら不利な土俵に乗ってしまうケースが多い。

とくに、生殺与奪が問題になるような緊迫したケースでは、相手は「こうするしかない」思考に陥っている可能性が高いでしょう。パニック状態のラットに近い。こういったケースで、自らラットの群に入るのは、むしろ危険だと思うのです。ラットの流れをうまく変えるほうがいいはずと。

 ・「土俵に乗らない」というのは対話を拒む姿勢ともなりませんか?

これは確かに危険ですね。常に「土俵に乗らない」というのは問題だと思います。上記文章では、人間は「土俵に乗らない」という選択肢があることを忘れがちだということを指摘しただけなので不足の議論は確かにあります。「ただ土俵に乗らない」だけじゃなくて、それに加えて「どういうときに土俵に乗るべきか」とか、あわせて考えなきゃいけないことがあると思っとります。
2007-01-20 09:49:05 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
コメント投稿機能は無効化されています。

Trackback

TrackBack投稿機能は無効化されています。