メッセージ。 - 差別は存在するか?
# 差別は存在するか?
差別ってさ、「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。」とあるけどさ、偏見とか先入観って、ありとあらゆる知覚に付随して存在するんだよね。
だってたとえば、「男とは」とか「女とは」って考えたとしても、ぼくもあなたも、すべての男やすべての女を見たわけじゃない。ぼくらが持ってる「男」や「女」という観念は、いままで見た「男」や「女」の傾向でしかない。世界中の男と女すべてを見て解析したわけじゃないから、そこには必ず偏りがある。
しかもこれは、男や女に限らない話で。サラリーマンとは、鳥とは、哺乳類とは、数とは、時間とは、犬とは、空とは、海とは、空気とは、定規とは、定理とは、青とは、光とは、神とは、生とは、うどんとは、モヒカン族とは、iとは、えもんかけとは、ガタンゴトンとは、礼儀とは、ピノ子とは、父とは、地面とは、経済とは、バーバパパとは、金属とは、恐怖とは、目標とは、☆とは、とはとは、とは、は、と。すべてが観測する座標の数だけ存在する。
偏見だけじゃなくて先入観も同じ。「お寿司はうまい」(寿司嫌いの人は?)、「ドーナツには穴が空いている」(食べかけのドーナツは?)、「空は青い」(曇りの日も?)、「ふじさわはこういう人間だ」(100年後も同じと言える?)、「1を0で割ることはできない」(どうして?)、「数学的帰納法で証明できる」(数学的帰納法はどうやって証明するの?)。
この世界はアナログなので、座標の数は無限にあると言える(もちろん、同時にこの世界はアナログじゃないし、座標の数は夢幻にあるかもしれないし、1つかもしれないし、座標というものが定義できるかどうかは分からないし、分からないとはどういう意味かも分かるかどうか分からないかもしれない)。
でもとにかく、偏りがないということはない(あるいはある)。だから言葉(座標)に基づくすべての知覚は区別であり差別であって、それによってしかニンゲンは、あるいは生命は、世界の扱いを変えざるを得ない。それは当然別の座標系から観測したとき、不当でありまた同時に正当でもある(もしくはない)。
だってたとえば、「男とは」とか「女とは」って考えたとしても、ぼくもあなたも、すべての男やすべての女を見たわけじゃない。ぼくらが持ってる「男」や「女」という観念は、いままで見た「男」や「女」の傾向でしかない。世界中の男と女すべてを見て解析したわけじゃないから、そこには必ず偏りがある。
しかもこれは、男や女に限らない話で。サラリーマンとは、鳥とは、哺乳類とは、数とは、時間とは、犬とは、空とは、海とは、空気とは、定規とは、定理とは、青とは、光とは、神とは、生とは、うどんとは、モヒカン族とは、iとは、えもんかけとは、ガタンゴトンとは、礼儀とは、ピノ子とは、父とは、地面とは、経済とは、バーバパパとは、金属とは、恐怖とは、目標とは、☆とは、とはとは、とは、は、と。すべてが観測する座標の数だけ存在する。
偏見だけじゃなくて先入観も同じ。「お寿司はうまい」(寿司嫌いの人は?)、「ドーナツには穴が空いている」(食べかけのドーナツは?)、「空は青い」(曇りの日も?)、「ふじさわはこういう人間だ」(100年後も同じと言える?)、「1を0で割ることはできない」(どうして?)、「数学的帰納法で証明できる」(数学的帰納法はどうやって証明するの?)。
この世界はアナログなので、座標の数は無限にあると言える(もちろん、同時にこの世界はアナログじゃないし、座標の数は夢幻にあるかもしれないし、1つかもしれないし、座標というものが定義できるかどうかは分からないし、分からないとはどういう意味かも分かるかどうか分からないかもしれない)。
でもとにかく、偏りがないということはない(あるいはある)。だから言葉(座標)に基づくすべての知覚は区別であり差別であって、それによってしかニンゲンは、あるいは生命は、世界の扱いを変えざるを得ない。それは当然別の座標系から観測したとき、不当でありまた同時に正当でもある(もしくはない)。
Comment
# うーん、USで「差別...
一方で、当事者に「全くそのつもりが無く」ても、客観的に見て、他の全ての条件が同じなのに人種・男女・etc。で待遇に差がついている場合は問題になります。被差別側がたとえ気にしていないとしても問題になり得ます(被差別側が「そういうもんだ」と思い込んでしまっている場合とか)。先入観や偏見から逃れられないのは人間として当然だけれど、社会的人間としては、それのみを根拠に人を不平等に扱わないだけの分別を持っていることを期待されるわけです。(そのため、例えば会社の募集要項には、合理的な理由が無い限り、年齢、性別、人種、国籍などの制限事項を一切書けません。応募側も履歴書にもそんなこと書かないし。面接で訊かれることもほとんどありません←訊くこと自体は合法だけど、それを根拠に落とされたと疑われると厄介なので、普通は避ける)。
日本での差別に関する議論は逆に、当事者の気持ちの問題が先に来がちな印象があり、どうも落ち着きが悪いです。価値観の違う人同士が居れば、何を言ったって傷つく人はいるわけで、そんなことは議論するまでもないと思うんですが。
#
なんとなく思ったのですが、そもそも「差別がいけない」という価値観は、「マイノリティが、マイノリティであるが故にその弱者的状況から抜けだせない(弱者はいつまでたっても弱者のまま)」という構図を救済したり、無限に搾取され続けるのを防ぐための、資本主義的道具として生まれたんじゃないかという気がします。そのような道具を用意することで、社会の活力を維持しようと、誰かが人為的に作ったんじゃないかと(あるいは、資本主義/自由主義の暴走を止めるための道具としてそういうものが必要になったのだろうかと)。
ところが日本では、アメリカやヨーロッパのように、民主主義が長い年月をかけて自らの手で得られたものでないため、「差別がいけない」理由を国民自身がよく理解できていないんじゃないかなと思います。また、民族的・文化的単一性が高いため、実際的な不利益や不平等が、目に見える形で対立しにくかったんじゃないかと思いました。逆にアメリカでは、喫緊の問題として不利益や不平等に対処する必要があったんじゃないかなと。
まぁ、想像ですけど。日本での差別に関する議論は、社会としてどうあるべきかという部分がすっぽかされがちに思います。とても感情的になるか、当事者以外は発言を許されないか、利権を守るために無言の圧力があるか。なにかこう、建設的でないような気はします。
#
アメリカでも「差別はいけない」には倫理的側面とシステム的側面があると思います。で、倫理的側面は多分宗教から来ててそれは強力なんだけど、他の宗教との間にコンパチビリティが無い。だから社会全体としてはシステムとして合意しましょうってことかもしれませんね。
# そうですね。同感です...
Trackback