メッセージ。 -
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うーむ、難しいですねぇ……。
なんとなく思ったのですが、そもそも「差別がいけない」という価値観は、「マイノリティが、マイノリティであるが故にその弱者的状況から抜けだせない(弱者はいつまでたっても弱者のまま)」という構図を救済したり、無限に搾取され続けるのを防ぐための、資本主義的道具として生まれたんじゃないかという気がします。そのような道具を用意することで、社会の活力を維持しようと、誰かが人為的に作ったんじゃないかと(あるいは、資本主義/自由主義の暴走を止めるための道具としてそういうものが必要になったのだろうかと)。
ところが日本では、アメリカやヨーロッパのように、民主主義が長い年月をかけて自らの手で得られたものでないため、「差別がいけない」理由を国民自身がよく理解できていないんじゃないかなと思います。また、民族的・文化的単一性が高いため、実際的な不利益や不平等が、目に見える形で対立しにくかったんじゃないかと思いました。逆にアメリカでは、喫緊の問題として不利益や不平等に対処する必要があったんじゃないかなと。
まぁ、想像ですけど。日本での差別に関する議論は、社会としてどうあるべきかという部分がすっぽかされがちに思います。とても感情的になるか、当事者以外は発言を許されないか、利権を守るために無言の圧力があるか。なにかこう、建設的でないような気はします。
なんとなく思ったのですが、そもそも「差別がいけない」という価値観は、「マイノリティが、マイノリティであるが故にその弱者的状況から抜けだせない(弱者はいつまでたっても弱者のまま)」という構図を救済したり、無限に搾取され続けるのを防ぐための、資本主義的道具として生まれたんじゃないかという気がします。そのような道具を用意することで、社会の活力を維持しようと、誰かが人為的に作ったんじゃないかと(あるいは、資本主義/自由主義の暴走を止めるための道具としてそういうものが必要になったのだろうかと)。
ところが日本では、アメリカやヨーロッパのように、民主主義が長い年月をかけて自らの手で得られたものでないため、「差別がいけない」理由を国民自身がよく理解できていないんじゃないかなと思います。また、民族的・文化的単一性が高いため、実際的な不利益や不平等が、目に見える形で対立しにくかったんじゃないかと思いました。逆にアメリカでは、喫緊の問題として不利益や不平等に対処する必要があったんじゃないかなと。
まぁ、想像ですけど。日本での差別に関する議論は、社会としてどうあるべきかという部分がすっぽかされがちに思います。とても感情的になるか、当事者以外は発言を許されないか、利権を守るために無言の圧力があるか。なにかこう、建設的でないような気はします。
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