メッセージ。 - 続続 0.999...は1か

# 続続 0.999...は1か

0.999...は1か の続きっていうか。

結局のところ、「0.999...は1か」ってのは、「そう考えればイロイロうまくいくよ」以上のものではないんだよ。

「0.999...=1」ってのは、証明できない。「証明できるよ」って意見もあるけど、その意見をよく精査すれば完全ではない。

「0.999...=1」を証明しようとすれば、「Aの定理により証明できる」という結論が得られ、「Aの定理は正しいの?」という疑問が残る。Aの定理を証明しようとすれば、「Bの定理によりAの定理が証明できる」みたいになって、収束しない。ゲーデルの不完全性定理だ。

だから本当は、数学者も教育者も、「0.999...は1なの?」って尋かれたら、「すばらしい質問だね!! その疑問は妥当で、結局のとろは先生にもその答は分からない。0.999...=1と考えればイロイロうまくいくってだけだ。ゲーデルって人がね……」と言わなければいけない。ところが、それを言うのはすごく難しいんだ。

簡単な問題だけど、なかなかそれができない。コロンブスの卵。その原因はいくつか考えられるけど、問題の1つは身体性にあって、多くの人にとって「0.999...=1」というのが身体性を伴って理解されている。「そう考えればうまくいく」という経験則に過ぎないことを、ついつい「証明できる」(世界の果てに到達している)と思ってしまったり、あいまいな答を言ってしまう。

質問者は、「じゃあ証明って何?」って話を尋きたいのに、そこに至らない。「正しいから正しいんだよ」の向こうに辿り着けない。それが悪いって言うんじゃなくて、人間には限界があるってことで、ある程度はしょうがない。それが我々の弱みであって、強みでもある。問題はつねに在るんだ。でも問題が存在することは問題じゃない。
2007-06-08 09:45:08 / ふじさわ / Comment: 6 / Trackback: 0

Comment

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「証明」とか「正しい」とか「完全」とかの意味が、数学と一般でずれてるのが原因かなぁ。このエントリの文章は数学的にはずいぶん違ったことを言ってるんだけれど、ふじさわさんは数学の話をしているわけじゃないんだよねぇ。たとえば数学的な意味で「証明できる」ってことは、「世界の果てに到達している」ようなこととは *全然* 関係が無いのだけれど… (むしろ、「証明できる」は「このプログラムにこの範囲の入力を入れたらこういう出力が出てくる」みたいな感じに近い。範囲外の入力を入れたらどうなるかわからないけれど、それを以って「プログラムが不完全である」とは言わないように。)

あと、不完全性定理をここで持ち出すのはたぶん的外れだと思う (ふじさわさんは「人間の認識の限界」みたいな象徴的な意味で感覚的に使ってるのかもしれないけれど…)。「証明できない命題がある」という話と、「Aは証明できる」という話は全然別なので。(それともほんとに不完全性定理と数列の極限の話がつながってて私が知らないだけかもしれないけど)
2007-06-08 13:19:43 / shiro / Comment: 0 / Trackback: 0

# 僕もほとんど shi...

僕もほとんど shiro さんと同じような感想です.以下まとまってないですが,付けたしというか蛇足というか… (汗)

0.99999... = 1 みたいな比較的大きな命題は,明らかに真偽が自明ではないですよね.

では,どこまで必要な公理 (天下り的に正しいとして与えられる出発点) の数を減らして,簡単なものにできるかという挑戦が,証明論とかメタ数学と呼ばれる学問領域だと思います.

まさしく「こう考えればいろいろうまくいく」体系を作ることが目的で,その体系の良し悪しもまた,証明できる命題の範囲の大きさで,厳密に検証することができます.ようするに,それが数学の本質で,一般の認識とは,単語の意味がかなり異なっているということです.

んで,その体系一つで全てをカバーできるような理論があれば,それでもう研究者の仕事は終わりなわけですが.不完全性定理により,そのような完全な体系は存在しないということが,また同じ枠組みで証明されてしまったということが,なかなか感動的というか凄いところです.これを,人間の理性の限界と悲観的にとるか,数学の永遠の発展性とポジティブにとるかは,人それぞれですが.少なくとも,数学者の仕事に終わりは無い,ということが証明されたわけです.完全な文学や絵画は存在しない,だから芸術家は日々努力し続けているわけですが,それはけして不毛なものではないですよね.

あと,人間の「納得」という感情が身体的なものであるというのは,まさしくその通りなんですけど.数学の強みとしては,人間の直観が及ばない命題に対して,機械的にその真偽を判定できるということがあると思います.つまり,普通の人間の直観を超えるような命題も,理論の力が強力ならば,凡人でも機械でも,誰でも扱えるようになるということです.
2007-06-08 17:48:11 / あろは / Comment: 0 / Trackback: 0

# shiroさん、あろ...

shiroさん、あろはさん、コメントありがとうございます。

ぼくも、shiroさんの意見(1つ目のパラグラフ)にほとんど同意(解釈としてはたぶん同じ)なんですが、そこから受ける感覚が違うんですよね……。

んー。あろはさんが書かれているように(shiroさんも同意してもらえると思いますが)、数学とか科学って、「こう考えればいろいろうまくいく」体系を作ることが目的(目的というか唯一の方法論というか)なんですよね。でも、それってゲーデルが不完全性定理を発見して、初めて明らかになったことだと思うんです。

あ、ちょっと脱線ですが、上記文章からはじまるスレッドでぼくがゲーデルの不完全性定理として挙げて根拠としているのは、 不完全性定理 - 哲学的な何か、あと科学とか にある
 第2不完全性原理
  「ある理論体系に矛盾が無いとしても、
   その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、
   その理論体系の中で証明できない」
という解釈です(ぼくは厳密に数学的に理解しているわけじゃないので、解釈が間違っているのかもしれないですが)。

それで、数学とか科学の目的が「こう考えればいろいろうまくいく」体系を作ることだって分かっている生徒や人なら、「0.999...=1だ」って言われたとき、「ほかの数学定理と無矛盾であることが検証されてるならいいや」と思えるというのは、ぼくも分かります。

でも、「こう考えればいろいろうまくいく」体系を作るという目的を知らない人って多いと思うんです。「直感的には」、数学とか科学というのは、そういう体系だと理解されないはず、と。つまり、上記Webページで

 数学界の巨匠ヒルベルトは
 「数学理論には矛盾は一切無く、
  どんな問題でも真偽の判定が可能であること」
 を完全に証明しようと、全数学者に一致協力するように呼びかけた。

とあるように、「数学理論には矛盾は一切無く、どんな問題でも真偽の判定が可能である」だろうと、天才も凡才も直感的に考えてしまいます。でも実際には、ヒルベルトも多くの数学者・科学者も間違ってて、科学会にはゲーデル的転回が必要だったわけですよね。

「0.999...=1って本当なんだろうか?」と考える人は、まさに自分の力で(本を読んで不完全性定理を知るのではなく)その転回に至ろうとしています。それは、すごく価値のあることだと思うんです。まさしくそういうアプローチこそが、数学や科学を発展させるだろうと。

shiroさんがおっしゃるように、「0.999...=1」ってのはいまの数学体系における実装上のチョイスにすぎませんよね。つまり、ほかの「0.999...≠1」という実装もありうる。ただその実装をチョイスした場合は、「0.999...≠1」と無矛盾になるように、まわりの数学理論も修正しなければいけないでしょうけど。

……「まわりの数学理論も修正しなければいけない」と書きましたけど。逆に言うと、「まわりの数学理論も修正すればいいだけ」という立場もあり得る。結果として、どちらの実装(体系)が、必要とする公理を少なくできるかが科学的立場としては重要なはず。あと、問題領域によっては、「0.999...≠1」を含む実装のほうが適している可能性がある。だから、「0.999...≠1」というのも考える余地がありますよね。

その事実に、人間って気付いているのかな? なかなか気付けないことも多いから気を付けたいですね、という感じでした。
2007-06-09 10:25:12 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

#

ああ、ふじさわさんのそのコメントの方がわかりやすいなあ。そう、まわりの数学理論も修正すれば(出来れば)問題ないでしょう。普通に「0.999... = 1」って命題をぽんと出されたら、デフォルトで「普通の数学」を仮定するでしょうから、普通じゃない体系を持ち出すなら持ち出す方が最初に定義を示さないとすれ違いになるでしょうが。

確かに、偉大な仕事が、後から振り返って、それまで普通に信じられていたことに対するちょっとした疑問から始まっているということはよくある (というより、ほとんどそうだと思う) し、そういう逸話をよく耳にする。けれども、そういうちょっとした疑問が全て偉大な仕事に結び付く可能性があるかというとそんなことはなくて。(a)子供のように、白紙の状態でなんとなく疑問を持つことと、(b)ちゃんとその理屈が意味することをわかっててなおその帰結に疑問を持つこと、それから(c)ナイーブな常識に囚われていてそれと違う理論的帰結に対して疑問を持つこと、これらは別だと思うんですよね。それを「気付き重要」でいっしょくたにしてしまうのはまずいと思う。

(a)はふじさわさんが言うように、より大きな体系へと興味をもたせる重要なきっかけになる。(b)は偉大な仕事へとつながる可能性がある。でも(c)は…本人が、囚われているナイーブな常識に対する自覚を持たない限り、建設的な結果は産まないと思うんですよね。

うーん、要するに、「これがこうなるのはおかしい」と思ったら、(a)自分の知識が足りてないか(b)体系に拡張の余地があるか(c)自分の視野が狭いか、それをちゃんと考えようってことになるのかなぁ。と勝手にまとめてしまいますが。
2007-06-09 11:37:53 / shiro / Comment: 0 / Trackback: 0

# うーん。難しいですね...

うーん。難しいですねぇ。個人的には、科学的な発見というのは、ある種の飛躍であって、そこに至るには「普通」からの脱却が必要になると思うんです。それで、じゃあ「普通」から脱却するためには何が必要になるかなんですけど、1つには「普通って何だろう?」、「普通って正しいのかな?」って、素直に疑問に思うことだと考えているんです。

科学的発見とはちょっと分野が違うと思われるかもしれないですけど、建築家のガウディは、こんな言葉を残しているそうです。「独創的であるというのは、原点に帰るということだ」。ぼくは本当にそのとおりだと思ってて、科学的大発見や大きな芸術的仕事に至るには、原点に帰ることが大事だと考えています。

原点に帰るというのは、「普通」よりももっと下に降りるということで、常識とか既成の観念から外れるというイメージで。それはイコール、身体性から外れることであったり、コロンブスの卵的なアプローチであったりという考えでいます。数学の場合でいうと、既存の数学体系自体を、つねに疑えるようにしておくこと、これが飛躍の元かなと。だいぶ抽象的で、ちょっと宗教がかってますね(苦笑)。すみません。
2007-06-09 23:46:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 0.999=1/3 ...

0.999...=1/3
1/3*3=1
∴0.999...=1
2007-08-10 18:34:55 / guest / Comment: 0 / Trackback: 0
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