メッセージ。 - 強いこと、数を集めること

# 強いこと、数を集めること

んー。シンプルに、嫌いなやつがいるなら、殴ればいいんじゃないの? と思う。

嫌いなやつがいるなら殴ればいいし、もし逆に、自分が誰かに殴られたら、殴り返せばいい。

そしてどちらか、最後まで立っていられたやつのほうが、次へ行けばいいんじゃないかと思う。

「強いことが正義」では駄目なのかな?

「強くないことが正義」ってのは変だし、
「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

ぼくは、「数を集めたほうが正義」という考え方は好きじゃない。
「数を集めたほうが正義」派はおうおうにして、「強いことが正義」派を「暴力だ」と表現する。

つまり、「強いことが正義」派による
「力の弱いものを捻じ伏せようとするやり方」を非難している。

でも結局、「数を集めたほうが正義」派だって
「数の少ないほうを捻じ伏せようとするやり方」を是としている。

どちらも結局、ねじ伏せようとしている。
だから、「数を集めたほうが正義」ってのは、「強いことが正義」と同義だ。

そのことを自覚して数を集めるのならいい。
「あいつは嫌いだからやっつけたい。みんな力を貸してくれ」と言うのならいい。
でも、大抵の場合「自分はあいつが嫌い」という表現は避けられる。

「みんなあの人のことどう思う?」(もちろん嫌いだよね?にっこり)と反語で表現される。

嫌いなものを嫌いと言えなくなっているというのは、重大な問題じゃないのかな。
誰かや何かを、「嫌い」と言うのは勇気がいるし、実質上、それは口にできない。なぜか?
たぶん、「自分は誰かや何かを嫌いだ」という言葉は、数を集めるのに適さないからだ。

そしてそのうち、「自分は誰かや何かを嫌いだ」とは誰も表現しなくなる。魔女狩りの日々。

でも、「嫌い」という感情は、人間にとって自然な感情なんじゃないのか。
「嫌い」という感情はなくせない。「嫌い」という感情はそこにある。
でもそれを、口に出せない、誰にも打ち明けられない。それは、どんな感じだろう?
2007-06-14 10:22:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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