メッセージ。 - 「私」の存在
# 「私」の存在
ちょっと引用が長いけど、すばらしく重要な理解だと思うので抜粋。
はてブついでに覚書。 - 繋がりたい私の選択
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070707/1183799300
既存のメディアの人の中に、ネットの匿名性を攻撃する人がいるけど、そういう人はまさにこういう「弱さ」を自分の核にしているのかなぁと思った。たいていの人はこの文章で指摘されている意味で弱いので、匿名性というのは今後も大勢としては攻撃され続けるのかなぁとか。
あと、この人はすごく鋭いのだけど、そこまでの鋭さがあるなら、たまには自分を捨てられる軽やかさとか、勇気とか、出せばいいんじゃないかなぁと思う(よくこの人のことを知らないで書いてますけど)。少し前から書いているような、「外から自分を見る」ってのは、過去や未来との繋がりを、あえて切断することにあたると思うんだよね。
優れた科学者や芸術家ってのは、過去や未来の自分との繋がりを、あえて切断できる人間だとぼくは思ってる。ただ、彼らはつながる術も持ちつつ、切断することもできる。内側から見ることができる一方で、外側からも物事を見ることができる。そしてそれは、すべての人間が内部に神を宿しているかのように、そこに在ることができるし、在ってほしいものだと思う。
「周りの人や、過去や未来との繋がりがなきゃ意味ない」ってことは、ないんじゃないかな。それを認めてしまうなら、あなたやぼくの個そのものが、社会性を依りどころにしか存在を許されなくなってしまう。でも、人間って社会的な存在である前に、根源としては非社会的な存在なんじゃないかなぁ。そしてその、非社会的な部分でつながりあえなければ、面白くないような気がする。
たとえば明日、あなたやぼくが記憶喪失になったとして、自分が誰かも分からなくなってしまったとしたらどうだろう? 「自分はもう死ぬしかない」と思うほど、記憶という社会への参加証は重いだろうか。記憶喪失になった友達を見て、「お前なんか知らない」と言ってしまえるようなものだろうか。親はきっと、自分の子供が記憶喪失になったって、自分の子供を愛してしまうものなんじゃないだろうか。ぼくは、社会性など記号にすぎないように思う。記号ぐらい失っても、人間にはたいして関係ないんじゃないかな。だって人間は、ちゃんとたくさんのものを持っていると思うもの。
はてブついでに覚書。 - 繋がりたい私の選択
http://d.hatena.ne.jp/chanm/20070707/1183799300
社会が昨日の私と今日の私とをおんなじ人間だと見てくれてること、そういう、周りの人の、私の同定性への信頼と安心によって私は支えられている。誰かが明日の私に今日の私の延長としての「場」を与えてくれることで、私はその人の中に明日存在出来る。そうやって認識されていることが私が存在しているということなので、その整合性が崩れそうになると身体のどこかでアラームが鳴っておっといけないいけないとどこかがバランスを取るようになっている。別に相手は社会や友人じゃなくて、神や主義でもいいけど、、。という感じで私は私を毎日”選択”してるような気がする。一つ言葉を発すれば、一つ行動をすれば、それによって次の私の選択肢が現れる。で、必ずその選択肢の中から次の”私”を選ぶようにしてる。選択肢外から次の私を持ってくるようなことは、基本的にはしない。アラームっていうのは、イメージが近い感覚は「恐怖」かなあ。で、アラームが壊れているような人がたまにいて、そういう恐怖みたいなのがないのかなあ強いなあうらやましいなあ何でもできるじゃんと思うけど、やっぱうらやましくないかな。そういう人は怖いし。なんでも出来たって、周りの人や、過去や未来との繋がりがなきゃ意味ないし。アラームっていうか恐怖というかこれは、弱い人間のための免疫機能なのかね。その人間が”社会的に”死亡しないための。
既存のメディアの人の中に、ネットの匿名性を攻撃する人がいるけど、そういう人はまさにこういう「弱さ」を自分の核にしているのかなぁと思った。たいていの人はこの文章で指摘されている意味で弱いので、匿名性というのは今後も大勢としては攻撃され続けるのかなぁとか。
あと、この人はすごく鋭いのだけど、そこまでの鋭さがあるなら、たまには自分を捨てられる軽やかさとか、勇気とか、出せばいいんじゃないかなぁと思う(よくこの人のことを知らないで書いてますけど)。少し前から書いているような、「外から自分を見る」ってのは、過去や未来との繋がりを、あえて切断することにあたると思うんだよね。
優れた科学者や芸術家ってのは、過去や未来の自分との繋がりを、あえて切断できる人間だとぼくは思ってる。ただ、彼らはつながる術も持ちつつ、切断することもできる。内側から見ることができる一方で、外側からも物事を見ることができる。そしてそれは、すべての人間が内部に神を宿しているかのように、そこに在ることができるし、在ってほしいものだと思う。
「周りの人や、過去や未来との繋がりがなきゃ意味ない」ってことは、ないんじゃないかな。それを認めてしまうなら、あなたやぼくの個そのものが、社会性を依りどころにしか存在を許されなくなってしまう。でも、人間って社会的な存在である前に、根源としては非社会的な存在なんじゃないかなぁ。そしてその、非社会的な部分でつながりあえなければ、面白くないような気がする。
たとえば明日、あなたやぼくが記憶喪失になったとして、自分が誰かも分からなくなってしまったとしたらどうだろう? 「自分はもう死ぬしかない」と思うほど、記憶という社会への参加証は重いだろうか。記憶喪失になった友達を見て、「お前なんか知らない」と言ってしまえるようなものだろうか。親はきっと、自分の子供が記憶喪失になったって、自分の子供を愛してしまうものなんじゃないだろうか。ぼくは、社会性など記号にすぎないように思う。記号ぐらい失っても、人間にはたいして関係ないんじゃないかな。だって人間は、ちゃんとたくさんのものを持っていると思うもの。
Comment
Trackback