メッセージ。 - 日記

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前から知ってたけど、いまさらメモしてみっか。えーと、ふじさわというのは、超自我が自我を圧迫して押さえつけようとするような傾向がある。

たぶんこれは、父親の影響だと思うのだけど。「○○しなければいけない」とよく言われて育ったから。そのくせ父親は、自分では規範的な生活などできなくて、よく母親に「なんで自分ができへんことを、子供にさせようとするのん?」なんてたしなめられていたりした。

そういうとき父親は、「自分ができないことを人にしろと言ったらあかんのか?」みたいな変な逆ギレをしていて面白かったのを覚えている。基本的に父親は大阪の商売人の子で、しかも長男なのでナヨナヨしている。だから怒っても暴力とかになったりするのではなくて、そういう怒り方になって面白い。論理としては、間違ってないしね。矛盾というか、自己に内在する解決不可能性の問題と肯定・外世界との関係というか、そういうのを考えるのに役立った。

とにかくまぁ、彼の心の中には「○○しなければいけない」という成分が若干過剰に在ったように、ぼくには思われる。いや、若干過剰にあっただけならいいのだけど、「○○しなければいけない」の後に「でも現実にはこれこれで」、「ということで△△してみたらどう?」みたいな折衷・提案型の思考があれば、あるいは「べき論」の手前にあるはず目的論があればよかったのになぁというように思っている。でもまぁ、ないものはないでしょうがないし、結局のところ根源は彼の人生の問題だし、すぐに解決する問題ではないので、気にしていないけど。

問題は自分、つまりぼくだ。ぼく自身がどのように人格形成すればいいか。父親のような圧迫過剰は良くないなぁと中学生ぐらいのときには思ってて、でもまぁそういう影響は避けられないし、厳然たる事実として自分の中には彼の性格傾向がコピーされていて、その事実から発生した結果たる現実を、正面から覆そうとしたり抗おうとしてもしょうがないなと考えていた。

それで、現実的にはどういう方針を採ったんだっけかなぁ。実際には目に見えるような何らかの行動をしたというわけではなかったはず。でもこう、なんというか、自分の中にコピーされている流れはたくさん在るわけで、その中から好ましいものを伸ばしていこうという方針を採ったのだったかな。で、たぶんそれを認めたことが、多義的な自己という現在の方針につながっている。

結局のところ、一人の人間は、自分でも肯定できず好きになれないような一面をはらんでいる。でもまぁ、そういった一面もあっていいじゃないかというか。自分の中に、嫌いな面もあるけど、好きな面もある。嫌いな面を全部隔離して廃棄することはできないし、それをすることに意味はない(という考え方がありうる)。1つの理由としては、好きな面と嫌いな面は渾然一体となって切り離せない状態で存在し、欲しいものだけを「欲しい」と言ったところで手に入るものでは到底なく、もし仮にそれが手に入ったとしても、どうせ「新しい」問題が発生して結局「問題」は解決しないから。またもう1つの理由として、過去の人たちもそのようなまだら色の面を背負って生きてきたという事実があるから。

ここではとくに後者。過去の人たちもまた、自分の中に嫌いな面をたくさん抱えながら生きてきた。彼らの中に、彼らが嫌い怖れる面があったからこそ、結果として彼らは彼らとして生きた。ならば、自分もまたそういう体験をしたいと思う。彼らと同じような体験をすることで、自分は彼らのことを理解できるだろうし、そうしたいと思う。だからぼくは、自分の中の嫌いな面も、なかなかそれなりに面白く感じている。それは彼らとぼくをつなぐ何かだし、ぼくをこの先へ運ぶ何かでもある。

それでなんだっけ。超自我が自我を圧迫して押さえつけようとする傾向か。まぁだから、あまり気にしていない。ひとことで言えば、そういうところも嫌いじゃないって感じか。論理として結構緩いかなぁ。まぁとりあえず。
2007-07-16 01:34:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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