メッセージ。 - 救急車のトリアージの話

# 救急車のトリアージの話

ちょっと前に、救急車でもトリアージを採用しようという試みがあると聞いた。

トリアージというのは、災害などでたくさんの傷病人が発生した場合に、「どの順番で治療をしていけば一番たくさんの人を助けられるか?」という問題へのアプローチ。トリアージでは、「怪我の程度が大きくて治療してももう助からない、という人のことを諦めて手当しない」という方針を採るらしい。神戸だったかで起きた電車脱線事故では、実際にトリアージが実践されたという。まだ生きている人間を見殺しにするようで心苦しい方策だが、こういう考え方があることは理解できる。

で、トリアージの是非についてはここで論じないのだけど、救急車でもトリアージを採用する試みがあると聞いて、なんとなくもやもやと考えたことがある。まず、救急車でのトリアージとは、何なのかを簡単に説明しておこう。誰でも聞いたことがあると思うけど、「最近では、日本全国で○分に一回は救急車(119番)が呼ばれている」というような話がよく聞かれる。つまり、「こんなに頻繁に119番が呼ばれているんだよ」という話だ。

ぼく自身は、その○分というのが多いのか少ないのか、本当に増えているのか減っているのかは知らないけれども、でもとにかく、あるテレビ番組の言うところによると、増えているらしい(番組名などは覚えてません。すみません)。その番組では、軽微な事故や病気で119番をコールする人が増えて救急車の数が足りなくなり、本当に救急車を必要としている人のもとに着くまでの時間が伸びているという。たしか、到着までの平均時間を計算すると、心臓病の救急に間に合わなくなる程度には数字が伸びているらしい。

そこで検討されているのがトリアージだ。救急車が現場に到着したとき、傷病人の程度が比較的軽微だと現場で判断できれば(つまり、救急隊員が判断して)、場合によっては病院まで運ぶことなしに、次の現場に向かうという処置だ。

これ自体はまぁ、アリだろうとぼくは思うけど、なんとなく、成功しないだろうなという気がした。というのも、そうやって傷病の程度を判別した結果が誤っていたときは、訴訟問題につながるケースが想定されるからだ。助かるかもしれなかった状況で、助からなかったならまぁ普通は腹が立つ。腹が立って、その判断をした救急隊員や、救急システムを攻撃する人は、ある程度以上いるだろう。そういった訴訟や攻撃のコストを、救急システムなりが払うことはできるのか?、できないような気がする。

一方で、もしトリアージなんてものがなければどうだろう? どこかの知らない誰かが119番をかけるせいで、今日も間に合わず悪い結果を迎える人たちがいる。しかし、その人たちの憤りや悲しみは、どこかへ行きようがない。明確に誰かを訴訟できるわけではないのだから、訴訟によるコストが国や救急システムといった主体に対してかかってこない。実際にはそのコストは全体で支払っていて、トリアージを採用したときに比べてそれを採用しないケースのほうが有意にコスト高であってもだ。

結局のところ、ある程度使いこなすのが難しい道具は、ある程度以上に賢いというか、理性的な人間でなければ使いこなせない。そして、人間というのはそれほど理性的なわけではないし、理性的でなくても良いのだろうと思う。救急車でのトリアージを成功させようとすれば、「救急隊員による判断ミスもしょうがない」と考えられる理性的な市民が必要だ。でも実際には、日本人は「市民を理性的にしよう」とはあまり考えない気がする。どちらかといえば、日本人は「理性的でない市民でも使える道具を作ろう」と考えがちだ。ここではそれの是非は論じない。
2007-08-15 00:02:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

Comment

コメント投稿機能は無効化されています。

Trackback

TrackBack投稿機能は無効化されています。