メッセージ。 - どうでもいいけど、「明示的」という日本語はあるかという話

# どうでもいいけど、「明示的」という日本語はあるかという話

0結論から言えば、「ある」というのがふじさわの立場。

なぜ「ある」かといえば、誰か一人でも「明示的」という言葉が「ある」と思えば「在る」という考えだから。


たとえばぼくの高校のときの同級生に、こういうことを言うやつがいた。「俺はオタクじゃない。マニアだ」。

そのことについて興味深く思い、けっこう長い間考えていたのだけど、結局ふじさわが至った結論はこうだった。

「彼がオタクかマニアかは、分からない」。なぜかと言えば、オタクもマニアも、「正確には」定義されていないからだ。

あるいは、それが「正確に」定義されていたとしても、「彼」がオタクであるかマニアであるか、証明する手段を我々は持たない。あるいは、「彼」自体が実は未定義だ。

デカルトは、「我思う、故に我あり」と言った。でも「我」が「在るか」どうかを、彼自身は証明しえない。それから導き出される自然な結論は、我々自身も、「彼」が「在る」かどうかを、証明できないということだ。

自分が存在するかさえ分からないのに、他者が存在するかどうかなど、分かりようがない。世界中に人間や生き物の数だけ定規があって、誰もが「この長さが1cmだ」と主張しているようなものだ。


別の観点で考えてみる。言葉とはなんだろう? たとえば「新しい」という言葉は、「あたらしい」と読むのが正しのか、「あらたしい」と読むのが正しいのか。「オタクという言葉」は在るのか。「彼氏」という言葉が、現在使われている意味で、「日本語」として「在る」と言ってしまえるのだろうか?

それらを鑑みると、結局のところ「たくさんの人が使っているから」という以上の根拠が、日本語の存在の根拠としてはあり得ない。「あたらしい」も「彼氏」も、「オタク」も、最初の一人が言いだす前は、「なかった」のだろう。でも、最初の一人が言いはじめて、だんだん多くの人が使いはじめて、そしていつのまにか「存在」にいたった。

じゃあ、存在にいたったのは、「いつ」だろう? 10人がそれを口にしたときか? 1万人がそれを認めたときか? それとも5000万人だろうか?

ここでぼくは、地域という概念を導入しようと思う。そこに住んでいる人が、それを「ある」と思えばあるという考え方だ。たとえ5000万人しかそれが「ある」と思わなかったとしても、それがその地域で通じ、意味をなしているのなら、「ある」という考え方だ。

そしてさらに。「地域」というのは無限小より大きく無限大より小さい範囲を指すと提案する。たとえ5000万人しかいなくても、50万人しかいなくても、50000人しかいなくても、地域に存在する彼らが十分にそれを「ある」と納得できているなら、それはある。

つまり、その地域に、「それはある」と思う人が一人しかいなくてもそれは確かに「ある」。「我思う、故に我あり」について、はっきり言ってぼくはそれは間違っていると思う。でも、それが間違っているということを、ぼくは証明できない!
2007-08-24 10:44:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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