メッセージ。 - 野生

# 野生

asahi.com:夢見た教壇2カ月 彼女は命を絶った 23歳教諭の苦悩 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/1009/TKY200710080324.html

この記事。なんかよく分からない。はてブとかでも、死んだ彼女が可哀想という論調が多くて、それもよく分からない。

や、そりゃあまぁ可哀想だと思うし大変なんだろうとは思う。SEがデスマーチで死んでいくのと同じぐらい、悲惨な現場なんだろうと思う。

でも、2か月でことを決めてしまうこの人の決断は、早すぎるんじゃないかなぁ。ぼくだったら、たった2か月で何かが分かるはずがないから重大な結論は留保するし、自分にできないのは当たり前だと考える。

だって新任でしょ? まだ2か月でしょ? できるはずがないじゃん。それを「やれ」と言うのなら、むしろ「やれ」と言うほうが無能だ。できない人間でも「できるようにする」、あるいは「できる仕事を与える」というのが有能な人間の仕事。

ぼくができないのは、ぼくだけのせいじゃない。ぼくをできさせない彼らのせいもある。だから、たとえぼくがひどい無能だとしても、その無能を活かせない上司や職場も無能だ。そして逆に、彼らの無能を活かせないのなら、ぼくもまた無能(彼らの能力を活かす力がない)だ。

死ぬなと言いたい。たった2か月で死なないでほしい。苦しくなったら辞めればいいんだ。貯金を全部下ろして南の島に逃げたっていい。親とも友達とも連絡を断って、誰も知らない場所に行ったっていい。でも生きたまま行って、生き続けてほしい。自分が死ぬぐらいだったら、相手を殺せ。相手を殺す意気で自分が生きろ。

そういう気迫というか、野生みたいなものを、少しでも持っていてほしい。そして、同じようなことはこっちの話にも感じる。↓

慣性のある生活 - 一年目の教師が経験した教育現場
http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071010/1192003209

まぁ、ぼくは何も知らない外部の人間で、呑気に外から何かを言うことはできないのだけど。みんなが共感しているほどには、ぼくはこの彼には同意できない。死んだ彼女にも、この彼にも感じるのだけど、線が細すぎるんじゃないかと思う。

彼らの直接の敵は、生徒や親や同僚の教師だったりするのだけど、でも彼らを苦しめているもう1つの大きな要因は、彼ら自身だ。はっきり言って、死ぬか生きるかのひどい状況に陥ったら、ルールなんか捨てちまえばいいんだ。高校生は勉強すべきものだとか、受験が迫っているのにとか、学習計画だとか、上司だとかは小さい問題。

生徒たちが教室で騒ぐとき、教壇に人が立って「騒ぐな」と言っても逆効果だと思う。むしろ教壇から下りて生徒たちの間に入ることが必要なんじゃないかな。彼らが騒ぐのには理由がある。どうしようもなくて、あるいは根拠があって騒いでいる。その原因を取り除いてあげなければ、結果を取り除くこともできない。

貧乏な人を助けてあげようと、「お金を稼げばいいんですよ」と言うようなものだ。池で溺れている人に対して「泳がないと助からないよ」と言うようなものだ。「騒いでいる人に騒ぐなと言う」、その無意味を考えないなら、救われない。教師という立場、学校というもの、そういったルールやフレームの中でしか自分のなすべきことを見ないのなら、子供のような公私の問題を混在させている存在とは対峙できないだろうと考える。
2007-10-12 08:05:16 / ふじさわ / Comment: 3 / Trackback: 0

Comment

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こんにちは、下の方の記事を書いた者です。基本的に僕は、いただいたトラックバックというのはありがたく頂戴して読ませていただくだけなのですが、どうしてもこれだけはわかって欲しいと思って、コメントさせていただいています。

おっしゃることは、一から十までその通りであると思います。何も死ぬことは無い。僕もそう思います。現に多くの教師たちは限界まで粘って粘って、ある人は幸運にも普通に逃げ出し、結構な数の人は精神や健康に不調をきたして強制退場をし、そして残された最も責任感の強かった人が、板ばさみの中で死を選びます。「逃げろよ、生きろよ」といわれること、本当にその通りではあるのですが、口で言うほど簡単に「やめる」ことが出来ぬのです。契約書に、少なくとも学期中の契約破棄を禁じた項目があるのが象徴的なのですが、真面目な人であればあるほど、そして基本的には「強い」人ほどに、学期途中でやめることの巨大な影響に頭を悩まします。授業時間はそこだけ穴になります。開いた穴は誰かが埋めねばなりませんが、学期途中で非常勤講師を雇おうにも人がいません。ただでさえとんでもなく忙しい教師が、結局はその穴を埋めます。これまでの授業の流れもわからずに。そして何よりも、突然先生が変わってしまうということがもたらす、生徒たちへの悪影響。こうしたもろもろの目に見えぬ鎖の様なものが、教師にはまとわり付いています。簡単にぽいっとやめられる人なら、死なないですむんですが、耐えられる人に限って、ある程度以上に強い人に限って、限界まで耐えて、そして死にます。教師という立場や学校というフレームの中「だけ」とおっしゃいますが、巨大なフレームの圧力の前に、涼しい顔して外側も見渡せるような人間は、恐らく教師にはむかないというこのジレンマを、わかってください。理で割り切って、「死にたいくらいなら相手を殺せ」という修辞的高揚で乗り切れないほどに、次から次へと、教師は縛られていきます。その絶望感をわかってほしいのです。

もう一つ、「教壇から下りて生徒たちの間に入ることが必要」という部分ですが、少しでも近づいた瞬間に「キモッ」と嘲笑されること。わかった風な口を聞いて彼らに近づこうもんなら、「媚びんなよ、ボケが。死ね」と拒絶されること。簡単に降りることさえ出来ないんです。祭り上げられて、教壇の上に曝し上げくらって、スケープゴートであることを自覚しながらも、なんとかマネージメントしていかなきゃいけない苦しい現実感覚。こうしたものを、少しでもご理解いただけたらと思うのです。原因を取り除こうもなにも、原因なんてはなっから無い、単に教師をあわてさせたいだけ、嘲笑したいだけという子供が多い中で、一体何を言えるでしょうか。「俺は君らのことをわかりたい」風の教師節は、多くの今の子供たちには、単に嘲笑されるだけなのです。根拠もなく、病理すらない瞬間的悪意を癒せるほど、教師は万能ではないのです。


「自分が死ぬぐらいだったら、相手を殺せ。相手を殺す意気で自分が生きろ。 」心が高揚する言葉です。ですが、(当たり前ですが)殺せませんし、殺す意気は、逆転して恐らくは自分を殺すでしょう。物凄く言葉が無力になる瞬間を、あなたにも経験していただけたら。そんな風に思います。
2007-10-12 10:06:37 / idiotape / Comment: 0 / Trackback: 0

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ああ、ごめんなさい。興奮してしまって、物凄く長い文章を書いたのに気づきませんでした。すみません。本当に、すみません。
2007-10-12 10:09:29 / idiotape / Comment: 0 / Trackback: 0

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コメントどうもありがとうございます。ご意見をいただけて感謝しています。本当に、心の中の苦しい声を聞かせてもらえることをありがたく思います。

基本的に、おっしゃることはよく分かります。というのも、ぼく自身が教師になったら死にそうなタイプだからです。ひどい状況に縛られて、頭の底が熱くなって体から汗が吹き出て、目の前が真っ暗になる自分の姿が思い浮かびます。

上でぼくが書いたことは、ある意味で軽口でしかありません。ぼく自身も日々に縛られ、生きるか死ぬかの生活を送っていたことがあります(いまは少し楽になりましたが)。でも、というか、だからというか、ぼくは逃げろとか生きろと言いたいのです。

遠い安全な場所から、適当なことを言ってすみません。もし何かぼくにできることがあったら(もしくは気が向いたらいつでも)、声をかけてもらえるとうれしいです。
2007-10-12 22:47:36 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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