メッセージ。 -

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こんにちは、下の方の記事を書いた者です。基本的に僕は、いただいたトラックバックというのはありがたく頂戴して読ませていただくだけなのですが、どうしてもこれだけはわかって欲しいと思って、コメントさせていただいています。

おっしゃることは、一から十までその通りであると思います。何も死ぬことは無い。僕もそう思います。現に多くの教師たちは限界まで粘って粘って、ある人は幸運にも普通に逃げ出し、結構な数の人は精神や健康に不調をきたして強制退場をし、そして残された最も責任感の強かった人が、板ばさみの中で死を選びます。「逃げろよ、生きろよ」といわれること、本当にその通りではあるのですが、口で言うほど簡単に「やめる」ことが出来ぬのです。契約書に、少なくとも学期中の契約破棄を禁じた項目があるのが象徴的なのですが、真面目な人であればあるほど、そして基本的には「強い」人ほどに、学期途中でやめることの巨大な影響に頭を悩まします。授業時間はそこだけ穴になります。開いた穴は誰かが埋めねばなりませんが、学期途中で非常勤講師を雇おうにも人がいません。ただでさえとんでもなく忙しい教師が、結局はその穴を埋めます。これまでの授業の流れもわからずに。そして何よりも、突然先生が変わってしまうということがもたらす、生徒たちへの悪影響。こうしたもろもろの目に見えぬ鎖の様なものが、教師にはまとわり付いています。簡単にぽいっとやめられる人なら、死なないですむんですが、耐えられる人に限って、ある程度以上に強い人に限って、限界まで耐えて、そして死にます。教師という立場や学校というフレームの中「だけ」とおっしゃいますが、巨大なフレームの圧力の前に、涼しい顔して外側も見渡せるような人間は、恐らく教師にはむかないというこのジレンマを、わかってください。理で割り切って、「死にたいくらいなら相手を殺せ」という修辞的高揚で乗り切れないほどに、次から次へと、教師は縛られていきます。その絶望感をわかってほしいのです。

もう一つ、「教壇から下りて生徒たちの間に入ることが必要」という部分ですが、少しでも近づいた瞬間に「キモッ」と嘲笑されること。わかった風な口を聞いて彼らに近づこうもんなら、「媚びんなよ、ボケが。死ね」と拒絶されること。簡単に降りることさえ出来ないんです。祭り上げられて、教壇の上に曝し上げくらって、スケープゴートであることを自覚しながらも、なんとかマネージメントしていかなきゃいけない苦しい現実感覚。こうしたものを、少しでもご理解いただけたらと思うのです。原因を取り除こうもなにも、原因なんてはなっから無い、単に教師をあわてさせたいだけ、嘲笑したいだけという子供が多い中で、一体何を言えるでしょうか。「俺は君らのことをわかりたい」風の教師節は、多くの今の子供たちには、単に嘲笑されるだけなのです。根拠もなく、病理すらない瞬間的悪意を癒せるほど、教師は万能ではないのです。


「自分が死ぬぐらいだったら、相手を殺せ。相手を殺す意気で自分が生きろ。 」心が高揚する言葉です。ですが、(当たり前ですが)殺せませんし、殺す意気は、逆転して恐らくは自分を殺すでしょう。物凄く言葉が無力になる瞬間を、あなたにも経験していただけたら。そんな風に思います。
2007-10-12 10:06:37 / idiotape / Comment: 0 / Trackback: 0

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