メッセージ。 - 「お前に何が分かるのか?」問題
# 「お前に何が分かるのか?」問題
昨日書いた文章についてだけど。あれを読んだ人はどう感じるのだろうか。いろいろな感じ方があるとは思うけど、1つあるのはこういうやつだと思う。
「お前に何が分かるのか?」
実際に体験したことのないお前に、当事者の気持ちが分かるの? 当事者を助けることができるの?って。
そう言いたい気持ちは分かる。そして、自分だってそう思うときはよくある。自分の悩みや苦労を告白したとき、「わかるわかる」とか、「そういうときはこうしたらいいんだよ」とか言う人がいる。
そういうとき、「何が分かるんだよ」と思ってしまうこともある。でも、相手によっては逆のことを感じるときもあってね。何が違うんだろう、と。それをずっと考えてきた。
それで、1つの結論に達したの。結局のところの違いは、「目の前にいるこの人は、ぼくのことを本当に助けてくれようとしてくれている人なのか、ぼくと一緒に泣いてくれる人なのか」ってこと。
目の前にいる人は、本当に自分の味方なのか。本当に自分のことを大事に思ってくれているのか。ぼくにとって、それを見極めることはすごく重要だって気付いた。そして、それを見極めようと頑張っているうちに、また新しいことに気付いた。
世の中のほとんどの人は、ぼくのことなんてどうだっていいと思っている。しかも、そう思っているにもかかわらず、表面上だけは「分かる」とか「こうすれば助かるよ」とか言ってくる。
たとえば川で溺れている人がいるとする。そのとき、いったい何人の人が、実際に川に飛び込んで助けてくれるだろう。ねぇ、あなたが川で溺れたとして、誰が助けてくれる思う? 川に飛び込んで人を助けるというのは、危険に身をさらすことだ。自分の命まで、生死の線すれすれにまで持っていくことだ。それができる人、自分のためにそれをしてくれる人。(逆に、自分はいったい誰のためなら川に飛び込めるだろうか、とも)
岸の上から心配して声をかけてくれる人はたくさんいる。でも、違うんだ。実際彼らのほとんどは、川に飛び込んでまで自分を助けてくれない。耳障りのいい言葉を投げかけたり、「人が川で溺れないよう柵が必要だ」とか言う人はいる。でも、目の前にいる人に対して、自分の身を危険にさらしてまで助けようとしてくれる人は、かなり少ない。
これは、いじめの構図にもあてはまる。「いじめられている子の味方をしたら自分もいじめられるかもしれない」って、みんないじめる子の側にまわるか遠巻きに眺めるばかり。戦争もそう。教師と教員室の関係もそうだし、学校と社会の関係もそう。だと感じてる。そのぐるぐるした輪の中から、抜けだしたいとぼくは思ってる。
「お前に何が分かるのか?」
実際に体験したことのないお前に、当事者の気持ちが分かるの? 当事者を助けることができるの?って。
そう言いたい気持ちは分かる。そして、自分だってそう思うときはよくある。自分の悩みや苦労を告白したとき、「わかるわかる」とか、「そういうときはこうしたらいいんだよ」とか言う人がいる。
そういうとき、「何が分かるんだよ」と思ってしまうこともある。でも、相手によっては逆のことを感じるときもあってね。何が違うんだろう、と。それをずっと考えてきた。
それで、1つの結論に達したの。結局のところの違いは、「目の前にいるこの人は、ぼくのことを本当に助けてくれようとしてくれている人なのか、ぼくと一緒に泣いてくれる人なのか」ってこと。
目の前にいる人は、本当に自分の味方なのか。本当に自分のことを大事に思ってくれているのか。ぼくにとって、それを見極めることはすごく重要だって気付いた。そして、それを見極めようと頑張っているうちに、また新しいことに気付いた。
世の中のほとんどの人は、ぼくのことなんてどうだっていいと思っている。しかも、そう思っているにもかかわらず、表面上だけは「分かる」とか「こうすれば助かるよ」とか言ってくる。
たとえば川で溺れている人がいるとする。そのとき、いったい何人の人が、実際に川に飛び込んで助けてくれるだろう。ねぇ、あなたが川で溺れたとして、誰が助けてくれる思う? 川に飛び込んで人を助けるというのは、危険に身をさらすことだ。自分の命まで、生死の線すれすれにまで持っていくことだ。それができる人、自分のためにそれをしてくれる人。(逆に、自分はいったい誰のためなら川に飛び込めるだろうか、とも)
岸の上から心配して声をかけてくれる人はたくさんいる。でも、違うんだ。実際彼らのほとんどは、川に飛び込んでまで自分を助けてくれない。耳障りのいい言葉を投げかけたり、「人が川で溺れないよう柵が必要だ」とか言う人はいる。でも、目の前にいる人に対して、自分の身を危険にさらしてまで助けようとしてくれる人は、かなり少ない。
これは、いじめの構図にもあてはまる。「いじめられている子の味方をしたら自分もいじめられるかもしれない」って、みんないじめる子の側にまわるか遠巻きに眺めるばかり。戦争もそう。教師と教員室の関係もそうだし、学校と社会の関係もそう。だと感じてる。そのぐるぐるした輪の中から、抜けだしたいとぼくは思ってる。
Comment
# こんにちは、はじめまして
気が向いたときにこちらのブログを読ませてもらっています。
書かれている問題自体とは別の話になってしまいますが、ふじさわさんはすごく真剣にものごとを考えているんだな、と感じます。
僕も問題とは真剣にちゃんと向き合いたいって思うタイプなので、勝手にちょっと共感を感じています。笑
僕が問題とちゃんと向き合えているかどうかは、別問題ですが。
最近思うのはバランスを取れるのって、すごく大切だなって思います。
自分と他人や社会、論理性と気持ちや感情といったものとか。
人間として、人間のコミュニティ(社会)で生きているものとして、また自分としてとか。
いろんな問題から逃げず、ちゃんと向き合って真剣に考えて、場合によっては苦しんで悩んで、どうしても耐えられに時は、周りに迷惑がかからにようにだけして逃げ出して、落ち着くことができれば、また問題とちゃんと向き合って。
難しいけど、そいう生き方というか、考え方って大切じゃないかなって、そんなことを最近は思います。
僕は考え過ぎで自分がつぶれそうになることがありますし、論理的な正しさだけを求めてしまって相手の気持ちを無視しがちなところもあって、全然バランス取れてないです。笑
ものごとを真剣に考えるタイプの人って、真剣に向き合いすぎてどこかで気持ちや感情を割り切ってしまっていて(そうしないと自分を保てないから)、他人に否定的になってしまいがちですが、ふじさわさんからは、あまりそういうところを感じなかったので、コメントを書いてみました。
唐突に申し訳ないです。
# コメントどうもありが...
普段ここにはあまりコメントしてくれる人がいなくて、内心ちょっと「ぼくは嫌われているのかな?」なんて思うときがあります。だから、共感してくださったり、たまに読んでくださっていると教えていただけて本当にうれしいです。ありがとうございます。
いただいたコメントを読んでなんとなく感じたのですが、人間って独楽(コマ)のようなところがあるかもしれません。
独楽が回るうえで、バランスは確かに大事です。人間でいうと、自分と周りとのバランスや、感情と論理のバランスなんかもそうでしょうね。そしてもう1つ、軸がしっかりしていることも大事な要素です。軸がしっかりした独楽は、まわりと多少ぶつかっても安定して回ることができますよね。
軸がしっかりしているってのは、人間でいうと、自分のやりたいことをはっきり分かってるとか、自分らしさを楽しめているかってことだと思うんです。
それで、自分らしさってcom6さんのおっしゃるように、「いろんな問題から逃げず、ちゃんと向き合って真剣に考えて、場合によっては苦しんで悩んで」ってすることで確かになっていくものなんじゃないかなと考えています。
ええと、それで、なんの話でしたっけ?(笑)なんとなくcom6さんのコメントを読んで、そういう独楽が頭に浮かびました。とかとか。
なんかトンチンカンなことを書いたかもしれませんが、コメント本当にどうもありがとうございました。また気が向いたら、いつでもお気軽にご意見なり質問なりくださいませー。
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