メッセージ。 - 日々

# 日々

この前の日曜日、散歩をしていたら公園を見つけた。芝生があって人も少ないので、おもむろに意味もなく走ってみることにした。意味もなく全力で走ったら足がもつれて転んだ。痛かった。左脇あたりを強打したのだろう。あれからええと、5日か。最初は寝返りが打てないほど痛かったが、もう今日はかなり痛みが引いて生活にも支障がなくなった。

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「我々はすでにこれだけ提供したのだから、次はあなたたちが返す番だ」。

この言葉がすべてを物語っている。前々からそうなのだろうと思っていたけど、実際にそうだったということだ。さて。

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最近思うのだけど、ソフトウェアを実装したことのない人が、要求仕様を出すのは難しいよなぁ。

彼らはどうも、自分が何を欲しいのか分かっていないし、そもそもおぼろげなそのイメージを表現することができないようだ(そういう習慣がないのだと思われる)。

なんとなく「SNSみたいなのを作って」という感じで発注をかけて、できあがってきたものを見て憤慨する。「全然違うじゃないか」と。でもそのとき、どこがどう違うのか、どこをどうしなければいけないのかは相手に伝えようとしない。「これは違う」ぐらいしか言わない。

言わなくても分かると思ってるかのようだ。ときに老夫婦は言葉なしで十分なコミュニケーションを成立させるけれども、日本の男はシステム開発においてもあれを期待しているのかもしれない。

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んー。大人か子供かは関係がないと思うっすんだよなー。
「大人にはできるけど子供にはできない」っていうことは、実際には世の中にはほとんどないから。

「3つ子の魂100まで」っていうけど。3才の子供はすでに大人と同じものを持っている。逆に大人でも3才の子供かと思うようなロジックを持っている人がいたりする。や、実際には3才の子供はすでに大人と同じだというのがぼくの意見なんだけど。

ぼくは、子供を救えるのは大人ではないと思う。強いて言えば「たまに人(大人)のなかには子供を救える人がいる」というぐらいか。でもその「たまにいる人」の割合はかなり少なくって、現実的には全然足りない。子供をまず救えるのは、親だ。個々の子供のまさにその親がまず、子供を救うしかない。

そして子供にとって子供を救えるのは、友達であって自分である。そうするほかない。

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「見よ。これでまた1つ、私の仮説の正しが証明された」と言うならば、まさにその瞬間、蜘蛛の糸は切れる。
2007-11-09 10:45:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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