メッセージ。 - にゃー

# にゃー

少し昔、世の中には「査定」という言葉や考え方があった。どこにどれくらいあったかは知らない。いまもどこかに相当量残っているはずだけど知らない。

ともあれ、「査定」という考え方は会社員の心や考え、行動を制限するものだ。「査定」という言葉は、「こんなことをしたら査定に響く」とか、「査定が低いから今回も昇進できなかった」というふうに使われる。

ベンチャー企業や、外国人の多い会社に勤めていると、「査定」という考え方は滅多に聞かない。一部の人はその考え方を持つが、その言葉を知らなさそうな人も多い。

「査定」という言葉を理解している人は、一般的にバリバリ働く。逸脱しない。そういう人はベンチャー企業やIT業界の中にあってもまだたくさん存在する。かくいうぼく自身も、意識しないうちに査定という言葉に囚われていたなと思うことがあった(査定に囚われることが悪いことだと言いたいわけではない)。

先日、ある外国人の従業員が突然2ヶ月の休みを取るという話を聞いた。どこか海外に行くのだという。プロジェクトの繁忙期であったということもあり、それを聞いた日本人従業員は耳を疑った。

「ありえない」「許可を得たのだろうか?」「勤怠管理上どういう扱いになるのだろう?」。「普通の日本人なら、そういうことはしない」。しかし、よく考えてみればなぜ「しない」んだろうか?どうすれば彼に「いまは行かないでほしい」と言えたのだろうか?あるいは、実は間違っているのはこちらで、彼の行動、「行く道」のほうが「正しい」のではないか?そう考えたとき、日本人がそういうことをしない理由のひとつは、「周りに迷惑がかかる」とか、「何か悪いことが起こる」といった考えもあるだろうけど、別の観点として「査定」が挙げられるのではないかと思った。

査定とは、要するにその組織の中での信用、creditである。アメリカでは、クレジットカードに信用スコアがあり、信用スコアを育ててメンテナンスしなければ社会生活に様々な差し支えがあるというが、それと同じ。会社の中には、各従業員にスコアが割り振られていて、そのスコアによって序列やなわばり、もっといえば生きやすさや誇りや自由が変わってくる。

だから、昔からある日本の会社では、中にいる人は査定を無意識にでも気にしている。しかし一方で、新しいベンチャー企業のようなところや、外国人が多いような会社、リストラが先に見えているような会社では、(本当は)査定が存在しない。嫌になったらすぐ辞めて次の会社に行けばいいような状況で、クレジットを気にしても仕方がないからだ。外国人従業員が「日本人ならこういうことはしない」といったことを簡単にやってのけるのは当然のことだ。

ところが、案外日本人はそのことに気づいていない。新しい世界には査定など存在しないのに、彼らは何十年経っても「それが存在した世界」のルールで働いてしまっている。経営者ですらそうだ。本来なら、ベンチャー企業を立ち上げたときや、外国人従業員を受け入れると決めたときに、彼らは「査定」に替わるなんらかの仕組みや規律や文化を築かなければいけなかった。

誰もそのことに気づかず、なぁなぁにやっていくからバラバラになる。ゴールがどこか、どうやってそこへ行くかが分からなくなる。

それはコミュニケーションの問題であり、リーダーシップの問題であり、設計の問題である。ルールがないか、あっても守られていないような球技やゲームがもしあったとしたら、さぞかしつまらないだろう。しかし、それが実際に行われている。誰かが悪いと言いいたいわけじゃない。ただ、チームメイトにパスを渡したい、ゴールに向かって一緒に走りたいと思ったときに、「チームメイトなんていなかった」というのはつらい。査定というルールや審判がないのなら、別の何かを作らないといけない。

違う文化圏、違う村から来た人たちとチームを組むのならば、ただ違うものを違うまま置いておくだけでは機能しない。目的とルールを明確にし、徹底することでゲームを動かさなければならない。そうしなければ面白くならない。
2019-10-17 21:00:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

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