メッセージ。 - にゃー
# にゃー
たまに、「友達みたいな親子関係」というのを聞き、ぼく自身もそういうのがいいなと思うけど、もしかしたら、そうでない形の良さもあるのかもしれない。
「友達みたい」というのは、対等で分かりあえるということだと思うけど、その逆で、子にとって「分からない親」という形。とくに小さい子供にとって、大人というのは対等に理解しあうには難しい存在だ。どちらが正しいというのではなく、底まで深くは理解が届かないというような。
つまりそれは世界と同じだ。子供には、そして人間にも、「世界」というものの全貌は理解しにくい。それは、家の中から窓の外を毎日眺めるような、電車の車窓から外の世界を覗くような、ふと一人になって、世界の音と光に耳を傾けるような、そういった「分からなさ」。
もしかしたら、子供にとって親というのもそういうものでいいのかもしれない。子は親をだんだんに理解していく。何か分からない、奥深い存在として。分からないけれども、何か分かるような気がする存在として。
「友達みたい」というのは、対等で分かりあえるということだと思うけど、その逆で、子にとって「分からない親」という形。とくに小さい子供にとって、大人というのは対等に理解しあうには難しい存在だ。どちらが正しいというのではなく、底まで深くは理解が届かないというような。
つまりそれは世界と同じだ。子供には、そして人間にも、「世界」というものの全貌は理解しにくい。それは、家の中から窓の外を毎日眺めるような、電車の車窓から外の世界を覗くような、ふと一人になって、世界の音と光に耳を傾けるような、そういった「分からなさ」。
もしかしたら、子供にとって親というのもそういうものでいいのかもしれない。子は親をだんだんに理解していく。何か分からない、奥深い存在として。分からないけれども、何か分かるような気がする存在として。
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