メッセージ。 - にゃー
# にゃー
(人間の)女性の性欲というのがよく分かっていないのだけど、こういうことなのかな?と思ったのでメモ。
仮説:女性は「アルファ男性から欲望されたい、アルファ男性と関係を持ちたい、アルファ男性から襲われたい、アルファ男性から守られたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、欲望そのままに生きることはできない。社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、原始的な性欲を単純に発露し現実のものとすることに対する危険性を学習することで、それとはもっと異なった形で欲が叶えられることを希望する。
同様のことが男性についても言える。男性は「だれかれ構わず女性を欲望し、女性と関係を持ちたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、ほとんどの男性は「だれかれ構わず女性を襲いたい」などとは微塵も思わなくなる。動物的な衝動はうちに残っているかもしれないが、理性と人格がそれを抑圧し、まったく異なった形で欲望を内在化する。
どちらのケースも、物理的な肉体のもつ「欲」は抑圧され、精神のもつ「欲」がその人個人の「欲」として自他ともに認知される。たぶん、ほとんどの人がそういう状態になっているのだけれども、一部に自制ができない人がいて、事件が起きる。ただ、自制できない人の絶対数は、(とくに平常状態において)基本的には多くないのではないか。女性は電車に乗ると相当な頻度で痴漢にあうというが、人口に占める痴漢の割合は多くないという説があるが、それと似たような関係性にあるのではないかと思う。
ネットを見ていると、「どうせ男はこうでしょ」といった意見を見かける。たしかに、原始的な(先天的な)欲求としては男なんてそんなものと言えるかもしれない。ただ、多くの女性がそうであるように、多くの男性は学習によって原始的な(先天的な)欲求を抑圧し、理性や人格を身に着けている。そういう人間にとって、原始的な(先天的な)自分は、イコール「自分」というわけではない。原始的な(先天的な)自分はたしかに内在しており消え去ってもいないけれども、人間にとってはその後身に着けた理性や人格こそが(社会における)自分である。
だから理性や人格を否定されてしまうのは悲しい。
結局のところ、相手の人の理性や人格を尊重しない人がいたり、そういったできごとがあったりして、悲しい声が聞こえてくるということなんだろうな・・・。
仮説:女性は「アルファ男性から欲望されたい、アルファ男性と関係を持ちたい、アルファ男性から襲われたい、アルファ男性から守られたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、欲望そのままに生きることはできない。社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、原始的な性欲を単純に発露し現実のものとすることに対する危険性を学習することで、それとはもっと異なった形で欲が叶えられることを希望する。
同様のことが男性についても言える。男性は「だれかれ構わず女性を欲望し、女性と関係を持ちたい」という原始的な(先天的な)欲望を持っている。ただし、人間は社会的な生き物なので、社会的な(後天的な)学習によって、「ああしてはいけない、こうしてはいけない、こうするのが正しい、こうなりたい」という理性や人格を身に着ける。その結果、ほとんどの男性は「だれかれ構わず女性を襲いたい」などとは微塵も思わなくなる。動物的な衝動はうちに残っているかもしれないが、理性と人格がそれを抑圧し、まったく異なった形で欲望を内在化する。
どちらのケースも、物理的な肉体のもつ「欲」は抑圧され、精神のもつ「欲」がその人個人の「欲」として自他ともに認知される。たぶん、ほとんどの人がそういう状態になっているのだけれども、一部に自制ができない人がいて、事件が起きる。ただ、自制できない人の絶対数は、(とくに平常状態において)基本的には多くないのではないか。女性は電車に乗ると相当な頻度で痴漢にあうというが、人口に占める痴漢の割合は多くないという説があるが、それと似たような関係性にあるのではないかと思う。
ネットを見ていると、「どうせ男はこうでしょ」といった意見を見かける。たしかに、原始的な(先天的な)欲求としては男なんてそんなものと言えるかもしれない。ただ、多くの女性がそうであるように、多くの男性は学習によって原始的な(先天的な)欲求を抑圧し、理性や人格を身に着けている。そういう人間にとって、原始的な(先天的な)自分は、イコール「自分」というわけではない。原始的な(先天的な)自分はたしかに内在しており消え去ってもいないけれども、人間にとってはその後身に着けた理性や人格こそが(社会における)自分である。
だから理性や人格を否定されてしまうのは悲しい。
結局のところ、相手の人の理性や人格を尊重しない人がいたり、そういったできごとがあったりして、悲しい声が聞こえてくるということなんだろうな・・・。
Comment
Trackback